2019年02月01日

秦 秦の反攻 9卿の末席を占める章邯、囚人を解放して反乱軍を攻撃、陳勝を敗死させる

 9卿の末席である少府の章邯は、民を徴発してももう間に合わないので始皇帝陵建設に動員されている徒刑20万人を赦し、兵士として活用することを説きます。2世皇帝が裁可すると、章邯は自ら将軍となって迎撃に赴きました。

 章邯は徒刑に「勝利を得れば残りの罰は免除する」と約束していましたから、兵士は必死に働きます。こうなると、急速に膨張した寄せ集め集団を軍事的に経験の浅い人物が指揮して勝利を得るのは難しくなります。ゲリラ戦にするか、敵の後背に回り込んで包囲するハンニバルのような作戦が必要でした。

 秦軍は周章の軍を破ると、敗走する周章軍を追撃し、周章を自殺に追い込みます。関中に入り込んだ反乱軍を殲滅すると、章邯は函谷関を出て巻き返しを図ります。2世皇帝もまた、司馬欣や董翳を援軍に送り、章邯を扶けさせました。

 その頃、陳勝から仮の王に任じられていた呉広は滎陽を攻めていました。

 滎陽には食料貯蔵庫があるため、戦略的に重要な場所です。この要地を守るのは、李斯の長男の李由です。守りは堅く、呉広は攻めあぐねます。そこへ章邯の接近が知らされると、呉広の部下の田臧たちは「呉広は傲慢で指揮官としては能力が足りない。今の情況で章邯軍の攻撃を受ければ敗北は必至である」と語り合い、陳勝の命令と偽って呉広を殺してしまいました。

 陳勝は反乱当初からの腹心の死に思うところはあったでしょうが、秦の反攻がある中では如何ともし難く、将の交代を認めざるを得ませんでした。田臧は李帰に一軍を与えて?陽を囲ませる一方、自分は軍を率いて章邯と戦います。しかし、田臧は章邯に敗れて敗死し、勝利を得た章邯は更に滎陽で李帰の軍を破り李帰を戦死させます。こうして遠征軍は崩壊しました。

 更に章邯は陳へ向かいます。陳勝は陥落して重臣は戦死、章邯は陳から西に戻って陳勝らの軍を破ります。

 この時に陳勝と運命を共にした者の中に、孔子の直系の子孫の孔鮒の名もありました。彼は始皇帝によって魯の文通君に封じられていたそうなのですが、どうも私には怪しく感じられます。というのも、始皇帝は焚書坑儒に見られるように儒家を尊重してはいませんでしたし、李斯や蒙恬といった功臣ですら封じられていない中で彼が封じられたというのは腑に落ちないのです。なので、漢代に入って儒教が国教になる際に、歴史がでっち上げられたのではないかと思うのです。


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2019年02月02日

秦 陳勝の死の影響 孔子の直径の子孫である孔鮒、陳勝と共に滅びる 陳勝の軍は瓦解するが、他の地域では反乱の機運は止まない

 孔鮒は陳勝が反乱を起こすと、彼を王に推戴したメンバーの1人でした。そして、陳勝の下から多くの部下が去っていっても、孔鮒は陳勝下に留まり続けました。

 陳勝は汝陰へ逃げ、更に下城父に至りますが、ここで御者の荘賈が陳勝を殺して秦に降伏しました。こうして、陳勝呉広の乱勃発から僅か6ヶ月で反乱は叩き潰されてました。そして陳勝は隠王と諡され、碭(とう)に葬られました。「隠」は、Wikipediaの「隠王」の項に「東アジア世界における王の諡号の1つ。特に何も業績を挙げなかった王や政治を混乱させた王に対する諡号である」とある通り、良い意味があるとは言い難いものです。

 敗北の余波は大きく、別方面の反乱軍へも影響を及ぼします。

 陳勝の生前、函谷関だけではなく、南方の武関からも咸陽を攻めようと宋留という人物を将軍に任じ、南陽を平定させていました。しかし陳勝が滅びると、南陽は再び秦に戻ります。宋留は武関を攻撃してましたが抜くことができず、戻ることもできなくなり、撤退中に秦軍と遭遇すると軍をあげて降伏しました。しかし、秦は宋留を許さず、彼は咸陽に送られて車裂きにされます。

 このように、陳勝の死によって動揺し、秦に戻る地域もありましたが、既に反乱は風に煽られた燎原の野火のように広い地域に広がっていました。楚では秦嘉が景駒を立てて抵抗を続けていましたし、先に触れた通り、趙には武臣、燕には韓広が自立していました。その他、魏でも陳勝の元部下の周市が旧魏の王族の魏咎を王に立てていました。魏咎は礼として周市を宰相に任じています。また、斉では最後の斉王である田建の弟の田?が、狄で秦の県令を殺害して斉王を名乗っています。また、韓でも王族の動きが活発化していました。

 そうした中でも頭角を現してきたのが、楚が滅亡する直前、秦軍を一敗地に塗れさせた将軍項燕の末子、項梁です。彼は民間で羊飼いとなっていた楚の懐王の孫、心を探し出し、求心力を高めるために懐王の名を与えました。


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2019年02月03日

秦 反乱の行方 章邯は魏と斉の連合軍を破って魏王を自殺させ、楚の重鎮項梁も戦死させる 咸陽では更に過酷な政治が行われ、人心が離れていく

 懐王の下には劉邦を始めとした勢力が結集します。

 同じ頃、陳を平定した章邯は軍を北に向けて魏を攻めます。斉の田儋は援軍に赴きますが、大敗して魏の将軍周市と田儋は戦死してしまいます。魏王を名乗っていた魏咎は追い詰められてしまい、民を巻き込まないよう降伏交渉を行って交渉が成立すると焼身自殺を遂げました。この時、魏咎の弟の魏豹は逃れ、楚に投じています。

 楚軍は項羽と劉邦が秦の分遣隊を撃破、項梁が定陶を囲む一方で主力が咸陽を目指して進むのですが、章邯は楚軍が分断したのを見ると項梁を襲って戦死させてしまいます。

 項羽と劉邦たちは東へ引き返さざるを得ませんでした。この後、楚軍は懐王の下で再編され、最終的には項羽が最有力の将軍となります。

 一時は章邯や王離(楚の項燕を敗北させた秦の名将、王翦の孫に当たります)の活躍で、反乱軍はかなり不利な情況に追い詰められます。しかし、それでも多くの人々が反乱に身を投じました。なぜなら、2世皇帝は、この期に及んで尚、民の酷使をやめなかったからです。秦が再び天下を安定して治めるようになれば、反乱に参加しなかった者にも辛い未来が待っていると感じられたわけです。

 丞相の李斯は何とか改めようとするのですが、彼の立場もまた、危ういものとなっておりました。李斯の長男の李由は三川の太守だったのですが、周章が函谷関を破って西に進むことを阻止できなかったため、何度も問責を受けるようになっていたのです。李斯は2世皇帝の怒りを買わないよう、「断罪を督励すれば君主の求めるものは得られ、国家は富み、君主の楽しみは豊かになります」とへつらうしかありませんでした。

 こうして秦ではますます苛斂誅求が行われるようになったのです。史記李斯列伝はこう記します。

それ以来、督励断罪を行うことはますますきびしくなり、人民から税を多くしぼりとる者がりっぱな官吏とされた。二世皇帝は言った、「こうであってこそ、督励断罪をはたしたと言えるのだ」。また道を行く者の半数を囚人がしめ、処刑された市街は日ごとに市場に積み重なり、人を多く殺した者が忠臣とされた。二世皇帝は言った、「こうであってこそ、督励断罪をはたしたと言えるのだ」。
史記列伝 2 (岩波文庫 青 214-2)


史記列伝 2 (岩波文庫 青 214-2)
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2019年02月04日

秦 皇帝隠遁 趙高は「皇帝が尊ばれるのは人前に姿を見せないからだ」と説き、2世皇帝への情報ルートを一手に握る

 これでは反乱が収まるわけがありません。

 また、趙高は郎中令となって権力を握ると、恨みのある者を罪に落として処刑してきました。権力の濫用を責められれば、趙高はいつ失脚してもおかしく無かったのです。そのため、趙高は、2世皇帝にこう言って、他の者を遠ざけようと図りました。

 「天子が高貴でいられるのは、臣下がただ声を聴くことができるだけで、御尊顔を拝見することができないためでございます。だから、朕と称されるのです(朕には兆しの意味があるそうです)。陛下はまだお若く、天下のあらゆることに通じていらっしゃるわけではありません。朝廷でもし誤るようなことがあれば、大臣たちからのそしりを受けないとも限りません。陛下は宮中深くに御座し、臣をはじめ法律に明るい者と相談してからご判断を下されるのなら、大臣も中途半端な上奏はできなくなり、天下の人々は陛下を名君と称えることでしょう」

 2世皇帝は趙高の言葉を採用し、群臣の前に姿を現さなくなります。そして、あらゆる上奏の窓口に趙高を据えました。

 こうなったら、臣下は誰が権力を握っていると思うでしょうか。当然、趙高だと思うようになりますよね。高い地位に立つ者が考えなければ行けないことの1つはリスクマネジメントだったりダメージコントロールです。悪いことが起こらないようにするにはどうすれば良いか、起こってしまった場合にはどうすれば良いか、その決断はトップしかできません。当然、凄まじい重圧がかかります。それに耐えなければならないはずなのです。

 しかし、2世皇帝は責任は負わず、地位に伴う特権だけは貪ろうとしたわけです。もし史記が語る2世皇帝の事績が史実そのままであるのなら、2世皇帝は史上最低の支配者の1人だったと言えるでしょう。


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2019年02月05日

秦 李斯失脚1 反乱を憂えた李斯が皇帝に上奏しようとしたことを、趙高は李斯追い落としに利用しようと図る

 李斯は反乱が放置して良いものではないと、何とかして2世皇帝に訴えようとします。それを知った趙高は李斯に会うと、「関東の盗賊ども(反乱軍のことです)が多くなるばかりなのに徴用が増えていることについて、私も訴えたいのではありますが、なにぶん卑しい身の上ですから難しゅうございます。これこそ丞相のお仕事でございます」と、李斯に直言を勧めます。李斯は「私もそれを言上したいのだが、拝謁する機会がないのだ」と答えます。趙高は、「丞相がお諌めなさいますのでしたら陛下のお暇な折にご連絡致します」と約束しました。

 そして、趙高は2世皇帝が美女と戯れているようなタイミングで李斯に連絡を入れます。李斯は拝謁を願い出ますが、そのようなタイミングで仕事に戻るような2世皇帝ではありません。面会は許されませんでした。

 同じことが3度繰り返されると、2世皇帝は「丞相は朕が暇な時にはやってこないのに、くつろごうとするとその度に上奏しようとする。丞相は朕を愚か者だと思っているのか」と趙高に怒りをぶつけます。趙高はすかさず、「危険でございます。丞相は沙丘の謀に参加しましたが、地位は高くなっておりません。きっと領地を頂いて王になりたいのでしょう。関東を騒がす盗賊どもとの関係も怪しいものです。楚の盗賊陳勝は丞相の郷里の近くに住む者です。それ故、彼らは跋扈し、三川の長官は丞相の長男の李由ですから、盗賊が通ると言ってもただ城を守るばかりで盗賊を攻撃しませんでした。そればかりではなく、丞相は長く権力を握っておりますのでその勢いは陛下よりも上かもしれません」と讒言しました。

 趙高はライバルを排除することで自分の地位を盤石なものにしようとしたのです。2世皇帝は李斯を取り調べるに先立ち、李由の件を調べ始めました。

 そのことは李斯の耳にも入ります。危機感を抱いた李斯は上書し、以下のように説きます。


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