2019年01月01日

秦 宦官3 切除してもすぐに性欲がなくなるわけではなく、多くの宦官は宮中の女性と擬似的な夫婦となった 若年で切除した場合、回復することも

 意外なことに、性器切除してもすぐに性欲が無くなるわけではないそうです。『宦官: 中国四千年を操った異形の集団 (徳間文庫カレッジ)』によれば、成人した男性の生殖機能をなくしても少なくとも10年は性欲が無くならないそうです。そして、性欲旺盛な宦官は後宮の女性に好まれました。

 女性たちは後宮に幽閉され、皇帝に会うことすらないまま生涯を終える場合すらあるわけです。歪んた生活の中で、宦官と恋愛があり、擬似的な行為があっても不思議はないでしょう。上掲書はこう記します。

 年若く健康で眉目秀麗、そのうえ性能力を失わなかった宦官は官女たちのもっとも好むところだった、明・清時代、このような宦官は"上床太監"(ベッドの上の宦官)と皮肉をこめて呼ばれた。


 公然と夫婦生活を送るカップルも多かったそうです。そのほとんど全ては必然的に生殖器の復活していない者だったため、舌を使ったり(舌耕)、道具を使ったり(狎具)したそうで、後宮に数多の女性を囲い込み、生殖機能を奪った男たちに管理させるという制度の歪みを感じさせますね。

 驚くべきことに、生殖機能が復活することもあるそうです。上掲の『宦官: 中国四千年を操った異形の集団』から引用します。

現代医学によれば、男子の発育は八年ごとに一段階を経るという。八〜十六歳は発育期、十七〜二十四歳は成熟期である。もし八歳以前に性器を切除された場合、体質が強健で生命力があり、また発育期間中の栄養がよければ、その宦官には新しい性器が成長してくる可能性がある。あるいはまた幼児のときに、特殊な雇い女が休むことなく睾丸を圧迫して破壊し、生殖器を萎縮させてしまう方法もあるが、そのような子供が宮中に送り込まれたのち、幼い皇子や公主(皇室の娘)らとたわむれて成長していくうちに性機能が回復してくる可能性もある。
 清の宮廷では定期的に宦官の下半身を検査しただけでなく、さらに、「三年に一度の小手術、五年に一度の大手術」の規則があったことからすれば、性器の再生や性機能の部分的回復は確実にあったものと考えていいだろう。



宦官: 中国四千年を操った異形の集団 (徳間文庫カレッジ)
宦官: 中国四千年を操った異形の集団 (徳間文庫カレッジ)


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2019年01月02日

秦 宦官4 性欲が回復した例、魏忠賢 刑罰として宮刑の誕生から、出世コースへと変わるまで

 宦官たちは生殖機能を復活させようと、効果のあると信じられたものを好んで摂取しました。『宦官: 中国四千年を操った異形の集団 (徳間文庫カレッジ)』で紹介されているのは、ウシやロバの生殖器、メスの生殖器、卵巣などです。

 回復した例として明末の魏忠賢がいます。魏忠賢は喜宗の乳母だった客氏と関係を結び、陰然たる権勢を誇りました。

 人に対する去勢は、初期は外国人捕虜行われたことが判明しています。彼らにはむしろ子をなしてもらっては困るので、生殖コントロールという側面が強かったのかもしれません。当然、彼らに周王室の機密事項など任せられません。簡単な仕事が与えられ、文書に絡むような仕事は通常の男性が担当しました。

 同国人に対する刑罰として宮刑は西周には存在したことが知られます。

 当時は奄人(えんじん)と呼ばれていました。「奄」の本義は「性器を切り取られた性器閉塞者」のことということです。後に、宦官が宮城門の守備に当たったことから門構えが加わり、閹となりました。

 宦官という言葉が広く知られていますが、閹人も同じ意味です。また、生命の根が腐ったとの意味で、腐人と呼ばれることもあったそうです。

 現代の、所謂「腐った」と自称される女性に対する言葉と比べると、重さに圧倒されますね。

 時代が下って宦官の扱う仕事の領域が後宮に至るようになると、宦官が一つの出世コースとして確立していきます。先に触れた豎刁のように、自ら宮する(去勢することで、自宮と言われます)者もいました。更に、家族によって宮されて後宮に入れられる者もいました。

 それでも、春秋戦国時代はまだまだ宦官の力は限られたものでした。それが秦に至って重要な政務にも就くようになっていきます。

 秦の始皇帝のように、大勢の女性を後宮に収めるようになれば、管理する宦官が増えるのは当然のことだったのでしょう。


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2019年01月03日

秦 始皇帝の死 重体に陥った始皇帝、長子の扶蘇に自分の葬儀を取り仕切るよう命じた勅書を用意させるが、趙高は握りつぶす

 ちなみに、「宦」には従来、宮刑の意味はなく、礼記に見えるという「人に仕える者を宦という」言葉通り、宮室で働く臣下のことを指す言葉でした。臣下=宦の事務を取り扱う中常侍は、最初は宦官以外も就いていましたが、やがて宦官が独占するようになり、臣下全般ではなく宦官を掌握するように職務内容も変化していきます。

 後漢末期に暗愚な霊帝の下で権勢を振るった十常侍が、役職としては中常侍でした。

 彼らは後宮の至るところに配置されました。その殆どは人目につく場所ではありませんでしたが、彼らを目にする数少ない場所である皇宮の禁門が皇帝専用色の黄色く塗られていたため、そこで働く宦官たちが黄門と呼ばれるようになっていきます。

 随分と長く寄り道してしまいましたが、ここでは秦に至って宦官の権限が肥大化したことを押さえて歴史の流れに戻ることにしましょう。

 少しだけ時間の針を戻して始皇帝の死の前の情況を確認しておきます。

 最後の巡行において、始皇帝は蒙毅も巡幸に同行させていました。蒙毅は始皇帝の寵臣で、いつもの通りでした。始皇帝の病が篤くなると、蒙毅を咸陽に派遣して病気が治癒するように祈祷させます。しかし、蒙毅が帰任する前に始皇帝は危篤に陥ります。

 始皇帝の傍に居たのは末子の胡亥、丞相の李斯、そして宦官の趙高でしたが、彼らは誰も始皇帝本人に対し、死後どうすればよいか聞くことができません。それほどまでに始皇帝は死を忌み続けていました。

 それでも、いよいよ死が迫ってくると、流石の始皇帝も覚悟を決め、北方に逐っていた長子扶蘇に対して「軍は蒙恬に預けて咸陽に戻り、自分の葬儀を行え」との勅を送るよう、趙高に準備させました。後継者の指名に他なりません。

 ところが、この文書は趙高が握り続け、発信されることはありませんでした。


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2019年01月04日

秦 沙丘の陰謀1 始皇帝に親任された趙高という男 寵臣の蒙毅はかつて趙高に死刑を宣告したことがあり、扶蘇即位は趙高には命取りだった

 趙高は趙の王家に連なる出自ではありましたが、どうやら親が罪に触れたようで、兄弟ともども去勢されて宦官にされました。女婿がいることから、成人後のことであったと推測されます。

 彼は極めて高い事務能力を有していたようで、裁判事務にも詳しかったこともあり、宮中の車馬を管理する中車府令に抜擢されます。

 この中車府令の時期に、趙高は胡亥に接近し、その面識を得たようです。そして胡亥に裁判について教えることで師となっていきました。

 ある時、趙高が大罪を犯したことがありました。審理に当たったのは、かの蒙毅です。蒙毅は趙高を処刑して名前を官僚名簿から抹殺するという判決を立案しますが、始皇帝は趙高が有能であるためにこれを惜しみ、趙高を赦免して元の地位に戻しています。

 趙高は有能な人物ではありましたが、しかし、それは主君の命令とあらば何が何でもやり遂げる、といった忠義で出世したわけではありません。どうすれば自分が権力を握ることができるのかを考えて生きてきたからです。

 始皇帝の遺言通りに扶蘇が2世皇帝として即位したらどうなるでしょうか。

 胡亥に近い趙高は権力から遠ざけられることは確実です。では、誰が2世皇帝となった扶蘇の輔弼の任に当たるのでしょうか。順当に行けば、北方で扶蘇と共にある蒙恬と、始皇帝からの信任も厚かった蒙毅です。そして、その蒙毅はかつて趙高に死刑判決を下していましたね。始皇帝の遺言を守れば、趙高の身は破滅するかもしれないのです。

 趙高が始皇帝の遺言を守らなかったのも、彼には十分に意味のあることでした。もし始皇帝の容態が回復すれば趙高は誅殺されたことでしょうから、危ない橋を渡ったのですね。そして、趙高は賭けに勝ったのです。

 始皇帝は趙高の願いどおり、最後の勅令を準備させてすぐに死去しました。

 さあ、後は、自分が権力を握るための策を練る番です。趙高が最も強く結びついているのは胡亥で、幸いにもその胡亥が巡幸に同行していました。そして皇帝の印綬は趙高が管理していますから、どのような命令であろうと勅命と偽ることができるのです。


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2019年01月05日

秦 沙丘の陰謀2 趙高は胡亥を訪れ、始皇帝が望んだ扶蘇ではなく、胡亥こそが即位すべきと説くが、胡亥は反対する

 趙高は早速胡亥を訪れました。陰謀の始まりです。

 扶蘇に送られるはずの玉璽の押された書簡を手にした趙高が、胡亥に語りかけます。

趙高「陛下はお隠れあそばしました。公子様方を王にするとのご遺詔はございませんが、扶蘇様にだけは書簡を準備されておられます。扶蘇様がお戻りになれば、ご即位されて皇帝におなりとなるでしょう。そうなれば、胡亥様には僅かな土地すら与えられません。これで良いものでしょうか」

胡亥「当然である。わしは『名君は臣下を知り、明父は子を知る』と聞き及んでおる。父皇帝が息子たちを封じないというのなら、何をか言うことがあろうか」

趙高「左様ではございません。現在、天下を得るも失うも、ただただ胡亥様とこの趙高、そして丞相李斯殿の手にかかっております。何卒、よくお考えくださいませ。人を臣下とするのと、人の臣下になるのとは同じことではございません」

胡亥「兄を廃して弟を立てるのは不義である。父の命令に従わずに露見したときの処刑だけを恐れるのは不孝である。才能が足らぬにも関わらず他人の働きを利用せんとするのは無能である。3重の不徳を重ねれば天下は服従せず、己が身は危険に瀕し、社稷の祭りすら保つことはできまい」

趙高「私が聞きますに、殷の湯王と周の武王はその主君を殺害しましたが、天下の者は義挙と褒め称え、不忠とは考えませんでした。衛君は一度出奔して軍を起こして父と争いましたが、衛国の人々はその徳を仰ぎ、孔子も不孝とはみなしませんでした。そもそも『大事をなすには末節にとらわれず、大いなる礼においては小儀にこだわらぬ』と申します。小ばかりを気にすれば後に必ず害を生じます。疑い躊躇えば、後に必ず後悔します。一方、断じて行えば鬼神もこれを避け、後には成功することでしょう。公子様にはご決断されるよう願い奉ります」


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