2018年12月01日

秦 第2回巡行1 東方への大動脈、馳道を建設させると、翌前219年東方へ向かい、斉の故地で祭祀を行う

 同年、東方への巡行に備え、馳道と呼ばれる道路網を築かれています。

 翌前219年には、第2回目の巡行が行われます。今度は東へ向かい、斉の都だった臨?を通って海に至って南下、琅?台を過ぎて彭城へ至り、長江を渡って雲夢へ、武関を通過して咸陽に戻るという長いルートが選ばれました。驚くべきは、この時までに咸陽から斉にまで馳道が延びていた、ということでしょうか。

 斉の故地に着いた始皇帝一行は、斉の祭祀を引き継ぎます。滅ぼした国の祭祀を絶やせば祟りがあると信じられたためです。斉は天、地、日、月、陰、陽、四季、軍神からなる8神と呼ばれる神を祀っていました。祭祀を行うのはそれぞれ異なる場所だったため、それらを巡る必要があります。

 巡行は国中を周り、国家を保つための祭祀を行うという側面を確かに持っていたのですね。畢竟、各国で崇められていた山や河を巡らなければならなかったわけです。

 その一環として鄒の故地にある嶧山に登り、そこで自分の功績を記した石碑を建てさせます。

 石碑は頌徳紀功碑と呼ばれ、全部で7つが記録されています。第2回巡行では、嶧山と封禅を行った秦山、更に琅邪台の3ヶ所、第3回巡行では之罘に2箇所、第4回巡行では碣石、第5回では会稽です。

 文章は李斯の手になるもので、小篆で刻まれてることから、文字の標準を示す意図があったのかもしれない、と『秦の始皇帝 (講談社学術文庫)』は指摘しています。石碑の現物については、泰山と琅琊台にのみ、残片が残っています。残念なことに、始皇帝を顕彰した部分は失われ、2世皇帝が追記した部分のみが現存しています。

 内容については史記にあるので、興味がある方は史記始皇本紀で読むことが可能です。

 嶧山に続いて、泰山に登って封禅の儀を行っています。

 泰山は標高1545メートル、日本の山で言えば1552メートルの八甲田山とほぼ同じ標高ですね。高さだけを云々するのであれば、全く珍しいところのない、ごく普通の山です。山登りに熟達された方なら、ピクニック気分で登れるでしょう。

秦の始皇帝 (講談社学術文庫)
秦の始皇帝 (講談社学術文庫)


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2018年12月02日

秦 第2回巡行2 泰山での特別な儀式である封禅の儀と泰山が神聖視された理由について

 それなのに、泰山は「大山鳴動して鼠一匹」の諺や封禅の儀に見られる通り、泰山は特別な存在であり続けました。その理由は、泰山が孤峰で、周りに高さを比べるものが存在しないことにあります。

 富士山は孤峰であるだけではなく、高さでも日本一ですね。加えて美しさも日本一である(異論を認めます)と言われることも多いのは、孤峰であることも大きいでしょう。あの美しい対称性は山脈にあれば分からなくなってしまいますし、山に埋もれてしまって全体像も見えなくなってしまいますから。

 孤峰ですから、山頂からは全方向を望むことができます。これは富士山からのご来光の美しさを知る方には敢えて言うまでもない利点でありましょう。

 こうした特別な山だからこそ、その山頂で祭祀が行われてきた、と言われます。

 例えば、『書経』によれば舜は岱宗で祭祀を行い、東方の諸侯と会盟した、とあります。この岱宗とは泰山のこととされています。

 また、斉の桓公が覇者となってから封禅の儀を行おうとしたことがあります。しかし、宰相の管仲は、彼の知る封禅の儀を行った者の名(伝説の黄帝や、舜や湯王といったビッグネームが並ぶ)を挙げ、今はその時ではないと諌めています。桓公は自分の功績を並べ立てて食い下がったのですが、管仲はなお反論し、流石の桓公も遂には諦めています。

 最初の覇者ですら軽々しくは封禅の儀を実行できなかったわけですが、しかし、黄帝や舜といった名前が出てきたからと言って、天命を受けた王者が封禅の儀を行ってきたという歴史的な事実があるとは言い難いように思います。なにせ、それ以前の君主は中原を支配しただけで、中国全土の統一からは程遠い情況でしたから、泰山に登ることができたか怪しいものです。

 そのようなものでしたから、始皇帝が封禅の儀を行おうとした時には既に祭祀の目的も儀式の詳細も伝わっていませんでした。ただ、天下が治まっていることを天に報告するもの、とは言われています。そして儀式のおおまかな有り様としては、『第03巻 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国) (中国の歴史 全12巻)』に「封禅の「封」とは土を盛り上げて壇を築き天を祭ること、「禅」はやはり壇を築いて地を祭ることをいう」とあるのが分かる限界です。

第03巻 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国) (中国の歴史 全12巻)
第03巻 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国) (中国の歴史 全12巻)


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2018年12月03日

秦 第2回巡行3 泰山での儀式を終えた始皇帝は琅琊へ向かう 琅琊で徐市(じょふつ)なる人物が海中の3神山について具申する

 始皇帝は泰山の山頂で天を、麓の梁父山で地を祀ろうと考えました。そこで斉と魯の儒生に儀式の詳細を下問するのですが、まともな答えは返ってきません。やり方が伝わっていなかったのだから当然です。已む無く、秦に伝わる祭祀をベースにした祭祀を行うことにしました。

 当日、車道を祓い清めて南から山頂へ向かい天を祀ると、北側から山を降りて梁父山で地を祀った、と言われます。

 この儀式の模様は秘匿され、記録が残っていません。そうしたこともあり、俗説の1つに泰山の中腹で激しい雨が降ったため始皇帝は山頂で祀りを行うことができなかった、というものがあるそうです。ただ、儀式そのものはきちんと実行されたので、祭祀ができなかったというのは秦を貶めるためのもののようです。

 では、なぜ儀式は秘匿されなければならなかったのでしょうか。

 『秦の始皇帝 (講談社学術文庫)』は、「封禅が政治的成功を天地に報告するための公的で国家的な儀式であるとともに、いなそのことにもまして、皇帝個人の不死登仙を祈願するための祭りであったからではなかったか」としています。実際、漢代には始皇帝が泰山で不死を得ようとしていた、との説が語られていたそうです。

 碑文からは不死を願ったという証拠が存在しないのではありますが、興味深い話ではあります。

 更に南へ行き、琅琊城の東南10里の大楽山に琅琊台を築きます。この琅琊は、かつて越王勾践が中国に勢力を伸ばそうと遷都したところとして知られるのですが、より有名なのは三国志における最大級の著名人である諸葛亮がこの琅琊を本貫(戸籍が編成されたところ)としていることでしょう。

 始皇帝は琅琊を気に入ったようで、3ヶ月も逗留し、12年間の賦役免除を約束して3万人の民を移しています。

 この琅琊において、徐市(じょふつ、恐らくは日本に来たという神話でも知られる徐福と同一人物)なる方士が海に蓬莱、方丈、瀛洲の3つの神山があり、仙人が住んでいるそうなので、斎戒した後に童男童女を連れて探しに行きたいと上書した、と史記始皇本紀は記します。

秦の始皇帝 (講談社学術文庫)


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2018年12月04日

秦 第2回巡行4 海中の神山の招待は蜃気楼? 不死登仙という思想は斉・燕で生まれ育ったため、この地方で神仙思想を聞いたのは偶然ではない

 3神山は上陸しようと船で近付くと遠ざかっていくというもので、普通の手段ではたどり着けない、というのです。不思議な力に打ち勝つ特性として、性体験が無いというものが想定されたわけですね。

 「無垢な」若者に聖なる特質を見る、というのはヨハネの黙示録でも同様に見られることで、普遍的な思い込みなのかもしれません。

 始皇帝は徐市に数千人の童男童女を付け、海上を捜索させました。

 それにしても、近づくと遠ざかるとは、まるで蜃気楼ではないですか。『第03巻 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国) (中国の歴史 全12巻)』はこう記します。

 山東半島とくに現在の蓬莱閣の北に廟島群島があり、遼東半島と山東半島が対置したところでは、六月ころ冷たい海水面の上の空気に、温かい空気が微風に乗ってかぶさったとき、冷たい密度の高い空気の方に曲がる屈折が起こり、島の蜃気楼が見える。実際の島の上に逆転した島が乗るような形となる。(略)そのような地に仙人がいると考えられた。


 もし当時の道がアスファルト舗装だったのなら、逃げ水と同じではないかと考えられたかもしれませんが、黄土を版築で固めたものなら逃げ水は見られなかったのでしょうか。

 さて、盧生が始皇帝に上書したのが斉の故地であったのは偶然ではありません。

 不死登仙は、もともと燕や斉の海浜地方に伝わるものです。その思想が鄒衍の唱えた五行思想と結びつき、五行説に基づいた不老不死の探求へとつながっていたものです。

 この怪しげな説を唱える方士と呼ばれる人々は、権力者に迎合して多額の活動費を引き出していました。

 上書していきなり数千の童男童女を授けられるわけがないので、徐市は以前から始皇帝の近くに侍っていたのでしょう。泰山での祭祀という始皇帝の気分が過去最高レベルに盛り上がっているところで怪しげな話をもちだしてまんまと大金をせしめたわけです。

 仙人の捜索を徐市に任せると、始皇帝は彭城へ向かいます。

第03巻 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国) (中国の歴史 全12巻)
第03巻 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国) (中国の歴史 全12巻)


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2018年12月05日

秦 第3回巡行1 博浪沙で突如30kgほどの鉄槌が始皇帝を狙って放たれるが、副車に当たり、始皇帝は九死に一生を得る

 この彭城において、鼎を引き上げようとして失敗した、との伝説が残されています。

 周が滅んだ際、王権の正統性を象徴する9鼎は秦に移されたと言われます。しかし、異説によれば、彭城を都としていた宋がそのうちの1つを持っており、滅んだ際に川に沈んだ、というのです。

 始皇帝が彭城を訪れた際、泗水に周の鼎が沈んでいると耳にし、川を捜索させましたが、見つからなかった、といいます。どうやらこの伝説には尾鰭が付いたようで、始皇帝は一度は鼎を発見したものの数千人を動員しても見つからなかった、というものもあります。更に、綱を巻いて引き上げようとしたのですが、龍が綱を噛み切ってしまったために失敗した、というバージョンもあります。

 しかし、周滅亡時に9鼎は秦に運ばれたとされており、この話全体が真偽の疑わしいものであるように思います。むしろ、始皇帝は9鼎を揃えることができなかった、つまり、始皇帝は統一国家を支配する正当性を欠くと天が示した、だから秦は早くに滅亡した、という考えに結びついているように思います。

 彭城で鼎引き上げに失敗した始皇帝が衡山から南山に向かう途中、長江上で湘山を祀ろうとしましたが、嵐に遭って果たせません。怒った始皇帝は湘山の神は誰かと問います。部下が舜の2人の后と答えると、始皇帝は怒り、刑徒3000人を動員して湘山の木を全て切り倒させてしまいました。

 前218年、前年に続いて第3回目の巡行が行われます。今回は、琅琊台までは前回と同じようなコースを辿り、泰山を経てやや北上して上党を通過して咸陽へ戻っています。

 この巡行の途中、博浪沙において副車が突如破壊される出来事が起こります。調べると、重さ120斤(30kg!)もの鉄錘が副車を直撃していました。もし始皇帝が副車に乗っていたのなら、少なく見積もっても重症を負ったことでしょう。

 暗殺未遂事件に対し、始皇帝は10日間に渡って犯人を探せますが、見つかりませんでした。犯人はよほど遠くから鉄錘を放ったのでしょう。


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