2018年11月01日

春秋戦国 中国統一1 暗殺未遂に怒った秦王政、燕を攻撃させる 少壮の将軍李信、少数の騎兵を率いて燕を蹂躙、和睦を望む王は丹を殺して首を秦に送る

 確かに、聶政のやったことはとても称賛されるようなことではありません。しかし、死に臨んでの行動には心にくるものがあります。また、姉も命を惜しまぬ烈女だったと思います。それと同時に、彼女の名を遂に人々は語り残さなかったことに扱いの差が見えますね。

 刺客列伝で取り上げられている刺客たち

 荊軻の秦王政暗殺未遂事件直後に戻りましょう。

 暗殺未遂に秦王政は激しく怒り、燕征伐の軍を起こします。主力軍を率いるのは王翦、そして機動力に優れた別働隊を率いるのは若き李信です。

 秦軍は向かう先で尽く勝利を収め、10ヶ月で燕の都、薊を陥落させました。この時、燕軍は城を枕に討ち死にするのではなく、秦軍の鋭鋒を避け、燕王喜と太子丹を始めとする人々は遼東へ逃亡し、ゲリラ戦を挑む構えを取りました。

 その間にも僅か数千の兵を率いる李信の軍が燕軍を翻弄、太子丹を衍水の辺りまで追い詰めます。

 燕の窮状を知った代王嘉は、燕王喜に「秦が燕を激しく攻撃するのは、太子丹を仇と狙うからです。王が太子を斬り、首を秦王に捧げれば、国を保つことは赦されるでしょう」と書簡を送ります。

 太子丹は身を隠しますが、父の追手に捕まって首を刎ねられました。これが前226年のことなので、暗殺未遂事件から2年で愚かな太子丹は殺され、燕は滅亡の淵に立たされたことになります。

 もっとも、この頃には秦の狙いは天下統一だったのでしょうから、荊軻のことが無かったとしても滅亡は時間の問題だったとは思いますが。

 暗殺未遂事件の落とし前をつけた秦は軍を引き上げます。そして、苛烈な戦後処理が始まりました。

 薊では荊軻と関係のあった者たちが次々と捕まり、処刑されます。それでも、一部の者は秦の手を逃れて生き延びました。この時、荊軻の親友であった高漸離もまた、名を変えて燕から脱出することに成功しています。彼についてはもう少し後に見ることになるでしょう。


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2018年11月02日

春秋戦国 中国統一2 秦の王賁、魏の都大粱を囲んで川の水を注ぎ、魏を滅亡させる 最後のライバル、楚を攻撃するのは誰か?

 燕は地方で細々と生き残っているとはいえ、ほぼ壊滅状態に陥りました。

 続いて攻められたのは魏です。暗殺未遂事件と同じ前228年、魏の恵?王が在位15年で没し、王仮が立ちます。前225年、秦は王賁を将として軍を起こすと、魏の都の大粱を囲み川の水を注ぎます。包囲から3ヶ月後、王仮は捕われ、魏は滅びました。

 人々は「魏は信陵君魏無忌を用いなかったから滅んだのであろう」と語り合ったそうですが、司馬遷は秦が覇業を達成しようとしていてまだ果たしていなかっただけで、どのような名将賢臣を抱えていても魏が退勢を覆すことは不可能だっただろう、というのです。秦は商鞅の改革以降、着実に力を蓄え、大きな失政が無かったからこそ強国となったのです。司馬遷の言葉の通り、魏無忌をどれほど重用しても、魏が天下を取ることは無かったことでしょう。

こうして、韓、趙、魏と、晋から分かれて成立した3国が滅びました(趙の遺臣が代に拠って細々と生きながらえているのはここでは無視します)。晋が統一国家として存在し続ければ、あるいは違う姿があったかもしれません。しかし、現実には秦にまだ滅ぼされていないのは、趙の亡命政権の代、遼東でなんとか生き延びている小国燕、すっかり存在感を失った当方の斉、そして南方に広大な領土を未だ保持する楚のみとなりました。

 秦は斉とは親しんでいましたので、最大の強敵は楚、ということになります。

 秦王政は王翦に、楚を攻めるにはどれだけの兵力が必要か下問します。王翦は60万と答えました。それは秦のほぼ全軍を意味する数字です。

 もし60万の軍を率いて出陣した王翦が反乱を起こせば、関中の軍では鎮圧は不可能です。唖然とする秦王政に、少壮の将軍李信が「私なら20万で十分です」と立候補します。李信は燕への遠征に於いて別働隊を率いて果敢に攻撃をしかけ、太子丹の首を得るのに功績を挙げた将軍でしたね。

 秦王政は王翦に、「楚を相手に60万もの軍が必要とは、将軍も老いた臆病になられましたな」と言うと、20万からなる遠征軍を李信と蒙恬に率いさせることに決しました。

 王翦は病と称して自宅に籠もります。

 李信と蒙恬は二手に別れて楚領に攻め入りました。秦軍と正面から戦って勝てる者などそうそういません。2将軍とも破竹の勢いで楚を侵していきます。

 もし、分進合撃が成功していれば、負芻は捕らえられ、楚は滅亡していたかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。楚の守将の項燕は、李信の軍を3日3晩休まずに追うと、李信の軍を完膚なきまでに叩きのめしたのです。2つの土塁に侵入、討ち取った部隊長は7人に及びました。大敗した秦軍は秦に逃げ帰るしかありませんでした。

 秦軍の大敗は趙を攻撃して李牧に敗れて以来のことです。そして、統一の過程で喫した最後の敗北となったのでした。


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2018年11月03日

春秋戦国 中国統一3 李信と蒙恬が楚に侵入、分進合撃を狙うも項燕に敗北 秦王政は改めて王翦に出陣を乞う

 秦王政は王翦に、「楚を相手に60万もの軍が必要とは、将軍も老いた臆病になられましたな」と言うと、20万からなる遠征軍を李信と蒙恬に率いさせることに決しました。

 王翦は病と称して自宅に籠もります。

李信と蒙恬は二手に別れて楚領に攻め入りました。秦軍と正面から戦って勝てる者などそうそういません。2将軍とも破竹の勢いで楚を侵していきます。

 もし、分進合撃が成功していれば、負芻は捕らえられ、楚は滅亡していたかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。楚の守将の項燕は、李信の軍を3日3晩休まずに追うと、李信の軍を完膚なきまでに叩きのめしたのです。2つの土塁に侵入、討ち取った部隊長は7人に及びました。大敗した秦軍は秦に逃げ帰るしかありませんでした。

 秦軍の大敗は趙を攻撃して李牧に敗れて以来のことです。そして、統一の過程で秦が喫した最後の敗北ともなったのでした。

 秦王政は自ら王翦を訪ね、「予が将軍の計を用いなかったばかりに、李信は敗れ、勢いに乗る楚軍は日々西に向かって進軍を続けているという。将軍よ、病とは聞いているが、よもや予を見捨てるようなことはなかろうな」と出陣を乞いました。

 王翦はしかし、「自分はもう老い、体も頭もなまってしまいました。どうか他に優れた将軍をお探しください」とやんわりと拒否します。

 秦王政は「先のことはもう済んだこと。それ以上は言ってくださるな」と重ねて願います。

 かつて、同じように王自らの嘆願を拒否した白起の例を見ましたね。白起は最後まで従軍を拒否し続け、誅殺されたのでした。王翦はその事例を痛いほど理解していたのでしょう。

「大王がどうしても臣を起用しようとされるのでしたら、必ず60万の兵をお与えください」と願います。

 秦王政は、「将軍の願い通りにしよう」と、60万の軍を与えることに同意しました。

 60万の兵士が居並ぶ出陣式には秦王政も臨席します。この席上、王翦は驚くべき行動に出ます。なんと、一等地にある低宅や田圃などの目録を取り出すと、「秦ではどれほど戦いで勝利を挙げても封じられることはありません。今、王の御心が私のところにあるうちに、子孫に残すための立派な邸宅や田畑を頂きたいのです」と勝利を得たらこれらを下賜して欲しいと願ったのです。



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2018年11月04日

春秋戦国 中国統一4 楚の状況 黄歇の子とも言われる哀王、即位2ヶ月で暗殺される

 何たる強欲と誰もが呆れたことでしょう。秦王政も苦笑いするばかりでした。しかし、これこそが王翦の保身策だったのです。部下に強欲を咎められた王翦は、秦王政は人を信じない性格で、部下に全軍を与えれば猜疑心からいつ反乱の汚名を着せられるかわからないが、強欲にねだり続けていれば野心の程度が知れると安心するだろう、と言ったのです。

 一方の楚について、触れておきましょう。

 春申君黄歇が前238年に殺され、その子とも言われる幽王が即位したことは紹介しましたね。その幽王が在位10年で死ぬと、その弟の哀王が即位します。

 記憶力の良い方は、おや?と思われるかもしれません。そもそも、春申君黄歇が自分の子を妊娠した李園の妹を考烈王に勧めたのは何故だったのでしょう?考烈王に子ができなかったから、でしたよね。勿論、哀王は幽王の弟ですから、幽王が生まれるまでは子がなかったが、その後ですぐに続けて別の子を得た、という解釈も可能です。しかし、李園の妹が後宮に入ることになった経緯がフィクションだったのではないか、との疑いを抱かせるものでもあります。

 さて、哀王とはそのまま、哀れな王と思われたからこそ付けられた諡号です。それもそのはず、哀王は在位わずか2ヶ月で異母弟の負芻を支持する勢力により暗殺されてしまったのです。

 一連の政変が起こったのが前228年、荊軻の事件があった年です。それから4年で楚は楚は王翦の攻撃を受けるようになりました。

 この頃の楚は、秦の圧力に押されて首都が寿春にまで後退していました。少々ややこしいのですが、楚は新たな首都に古い首都の名前を冠し、郢と呼んでいます。ですので、攻撃されたのは今回もまた郢なのですが、過去に陥落した場所とは別です。



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2018年11月05日

春秋戦国 中国統一5 王翦は陣地を築くと中に籠もって油断を誘い、隙を見せた楚を一挙に殲滅する

 国境線は随分と押し込まれていましたが、楚はそれなりに勢力を保っていたようです。『項羽と劉邦の時代 (講談社選書メチエ)』は以下の通りに記しています。

 
 その繁栄のようすは、最後の都となった寿春にもうかがえる。いま安徽省寿県には、後世の県城が残されているが、その?水に接した東南部に故城遺跡がある。近年の復元によると、寿春故城(東西約4.25キロ、南北約6.2キロ。面積は約25平方キロ)は宮殿と墓葬区をもち、そのまわりに城濠っと通じる水路があるという。この城郭都市の規模は、紀南城とくらべても見劣りがしない。また寿春の南には、水利灌漑で有名な芍陂という巨大な人造湖がある。そしてこの地域からは、「郢爰(えんえい)」とよばれる楚に特有の金貨が出土し、この金貨はさらに広く分布している。これらは戦国末の楚の経済基盤を示している。

(ただし、漢数字は引用者にてアラビア数字に置き換えた)

 楚はまだ金貨の発行、流通ができていたようですね。

 王翦は東へと進みます。そして、占領地に入ると、楚軍がどれほど挑発しても人を固く守って短期決戦を避けます。そして、毎日のように兵士にご馳走や酒を振る舞い、兵士と食事を共にしました。しばらくして王翦が兵士の様子を尋ねると、石投げなどの娯楽に興じている、との答えが返ってきます。

 楚軍はどれだけ挑んでも秦軍が撃って出ないので、東方へ軍を返します。その時を王翦は待っていました。すかさず出陣すると、楚軍を猛追して大いに打ち破り、項燕を戦死させます。翌年、王翦と蒙武が負芻を捕らえました。

 負芻が捕らえられたことを受け、かつて秦に人質とされており、その際に嫪毐の乱鎮定に功績のあった昌平君が江南で自立します。翌年、王翦と蒙武が江南を攻め、昌平君を自殺に追い込みました。こうして楚は滅び、最期まで抵抗を続けた地域には会稽郡が置かれました。会稽といえば、呉越の争いの舞台でしたね。

項羽と劉邦の時代 (講談社選書メチエ)
項羽と劉邦の時代 (講談社選書メチエ)


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