2018年07月01日

春秋戦国 燕の雌伏の時代 斉は燕から撤退し、弱りきった燕で太子平が即位し昭王となる 

 この後、孟軻は大国には相手にされず、鄒や縢といった小国にも遊説に向かいます。一時は魯の平公の招聘という話も出ましたが、果たせずに孟軻は仕官を諦めます。そして先述した通り、故郷に帰って経典の整理に明け暮れました。この後、歴史の表舞台には出ることのないまま前290年頃に死去することになります。

 さて、斉にほぼ全域を占領された燕で抵抗が起こります。斉の強大化を恐れる諸国は燕を助けるために斉を攻撃する姿勢を見せたことから、宣王は燕占領を諦めて撤退しました。

 この一連の事件を、子之の乱と呼びます。内憂と外患に共に晒されて弱体化した燕で、太子平が即位します(但し、平は子之の乱で亡くなり、平の弟で庶子の職が即位したとも言われます)。これが昭王です。

 土地の多くは取り戻したものの国は疲弊してしまったのですから、昭王にとって斉は憎い仇です。そこで復讐を考えるのですが、どう冷静に考えても、斉に勝てるとは思えません。なにせ、国土は狭く、貧しく、兵力は乏しく、おまけに人材もいないのです。

 国が貧しいのは、地理的な要因もあります。燕の首都、薊は現在の北京に当たる場所です。北京は北緯39.5°に位置します。日本では東北地方に当たる緯度で、現在は品種改良が進んだためコメの作付けが可能ですが、当時は不可能でした。 都市の付近ではアワやヒエの農耕が行われた形跡があるそうですが、広く一般的なものではありませんでした。

 諸国の人口増は穀物栽培によるものですから、それができないことは大きなハンデでした。人口が増えなかったことは国土開発の遅れにも繋がり、広い面積に森林が広がっていました。

 かつて蘇秦が各国を巡って合従を取りまとめた際、燕を褒めそやす中に、「耕作はしないがナツメやクリで十分な食料を得ることができる」とあります。一方、牧畜は盛んで、毛織物や毛皮、ウマやイヌの産地として知られていました。


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2018年07月02日

春秋戦国 昭王の人材収集 「隗より始めよ」の故事と、無能な人間が自分は有能と勘違いするダニング=クルーガー効果

 国土の狭さはどうにもなりませんが、貧しさ、兵力、そして人材は、何とかできる可能性があります。昭王はそれらの中で人材を何とかして得たいと願い、郭隗という臣下にどうすれば良いか訪ねます。

 郭隗は昔話から始めます。

 曰く、昔の王で1日に1000里駆けるウマを欲しがった王がいたそうです。ところが、大金を積んでも得られません。ある男が自分に任せてくれと言い、死んだ名馬の骨を500金で買って来ます。王は「儂が欲しいのは1000里を駆けるウマだというのに、骨を買ってどうするというのか」と叱責しますが、男は「人々は王が名馬の骨にすら大金を出すことをしりました。まして、生きた名馬ならもっと多くのカネを得られると思うことでしょう」と返しました。その後、王の下には名馬が集まった、という話です。

 そして、「隗より始めよ」、即ち、「この隗(=私)から始めてください」と言いました。郭隗はとりわけ優れた実績の持ち主ではありません。その郭隗を下にも置かない扱いをすれば、より高い能力を持つと自負する者が集まってくるに違いありません。

 しかし、ここを読まれている皆様には是非ともご注意頂きたいことがあります。それは、ダニング=クルーガー効果と呼ばれるもので、認知バイアスの1種です。悲しいかな、能力の低い者は自分の能力を実際よりも高く見積もるというのです。

 皆様の周りにも居ませんか?周囲からは無能と思われているのに、自分では有能であると思いこんでいる輩が。彼らは無能なのにそれを理解していないのではありません。無能「だからこそ」、自分が無能であることを理解できないのです。彼らに己の無能さを理解させるには、正しく訓練する必要があります。

 訓練した結果、有能になるのでは無く、単に無能であることを自覚できるようになるだけというのは実に救いに満ちていて素晴らしい話ですね。

 有能な者はどうかというと、彼らは自己を低く評価します。何故なら、彼らは自分と同じことは他人もできると勘違いしているためです。有能極まりない私には無縁の話ですが。

 なお、ダニエルとクルーガーはこの研究によりイグ・ノーベル賞を受賞しています。


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2018年07月03日

春秋戦国 詭弁家たち 趙の燕侵攻を思い留まらせた漁夫の利の例え話 張儀は楚に復讐するための作戦を発動する

 人間の悲しい限界についてはこのあたりにしておいて、燕の昭王に話を戻しましょう。幸いなことに、燕に集まってきたのは自称有能な者ばかりではありませんでした。

 稷下の学士にも名を連ねていた騶衍、蘇秦の弟の蘇代らがやってきます。蘇代はかつて燕王噲に子之に権力を預けるように進言して子之の乱の遠因を作った人物ですから、よくもまあ戻ってくられたなあと思わなくもありません。

 この蘇代は、以前に趙が燕に攻め込もうとした時、趙の恵王の下へ赴いてこのような話をしています。

 「私が魏へ来るために易水を渡っておりますときに見たことです。貝が泥から顔をだしたところに、シギがやってきて身を食べようといたしました。貝はとっさに貝を閉じてシギのクチバシを挟みました。シギは『このまま雨が降らなければお前は死んでしまうぞ』と言い、一方貝は『このままものが食べられなければ死んでしまうぞ』と言い返します。そうこうしているうちに漁師がやってきて、共に捕らえられてしまいました。今、趙は燕に攻め込もうとしておりますが、趙と燕が戦い、共に疲弊すれば、先の漁師の立場になるのは秦であろうと考えます。王にはどうかこのことを熟慮頂けますよう」

 漁父の利の故事を生んだこの説得により、趙は燕に攻め込むことを止めたということです。

 燕は人材を集め、国力の回復に努めます。その努力が大いに実るのはもう少し後に名将を得てからのことになりますので、今は他のことを見ていくことにしましょう。

 前313年、張儀は楚をターゲットにした工作を開始します。当時、楚は斉と同盟を結んでいました。斉は東方における最大勢力であり、燕にも勝利して勢いは衰えないままでした。その斉が楚と結んでいるとなれば、迂闊に楚を攻撃することはできません。

 秦として楚を弱体化させることが重要だったことに加え、張儀としては私怨としても楚に復讐を望む気持ちがありました。かつて張儀がまだ貧しい青年で各国を遊説して回っていた頃、楚の大臣に従って宴会に出たことがあります。この時に窃盗事件があったのですが、張儀は濡れ衣を着せられて袋叩きに遭ったのです。


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2018年07月04日

春秋戦国 張儀1 我が舌はまだありや?楚への復讐に燃える張儀、商・於の地600里四方を餌に楚と斉の同盟を破棄させ、土地は与えない

 張儀は妻に、「俺の舌はまだあるか?」と尋ね、「ある」との答えを聞いて「それなら十分だ」と嘯いています。この悔しさが彼を大成させる原動力となったとしても不思議はありませんし、楚へ激しい恨みを抱くきっかけとなってもおかしくないと思います。

 楚は懐王という、少々思慮に欠けた人物が王位についていました。張儀は、「もし斉との同盟を断ち切って下さるなら、商・於の地600里四方を差し上げましょう」と約束します。

 商といえば、かの商鞅が封じられた地でしたね。

 懐王は喜び提案に乗ろうとしますが、反対論を唱えた者が居ます。それが屈原です。

 屈原は楚の武王の血を引く、名門中の名門出身です。血筋だけではなく、記憶力に優れ、豊かな詩才を持つ文人でもありました。そしてまた、彼は剛直の士でもあったのです。彼は秦は信用ならない国と見ていました。

 秦のこれまでの振る舞いを見てくれば、信用ならないと判断されるのもおかしくはないでしょう。そして、当時の強国と言えば秦と斉ですから、楚も親秦派と親斉派に分かれていました。秦を警戒する屈原は親斉派として重きをなしていました。

 こうした背景を見れば、屈原が斉とのつながりを断って秦から土地の割譲を受けることに大反対を唱えることは、火を見るより明らかだったことでしょう。

 しかし、懐王にしてみれば、斉との同盟を切るだけで600里四方という広大な土地を手に入れられる絶好の機会だったわけです。王は屈原に代表される親斉派を退け、同盟を破棄しました。

 懐王は秦に、商・於の地を受け取る使者を派遣します。しかし、張儀は「約束通り、6里四方の土地を与えましょう」と木で鼻を括ったような答えです。使者は「600里四方との約束だっただろう」と詰め寄りますが、張儀は抗議に洟も引っ掛けず、使者を楚に追い払いました。

 斉との同盟を失った挙げ句に得るものの無かった懐王は怒りに怒り、翌前312年に秦へ攻め込みますが、敗北してしまいます。

 秦としてはこれ以上楚を追い詰めることを狙わなかったか、はたまた土地割譲を求めれば張儀の功績が天井知らずに上がることを恐れてか、土地を与えて楚と和睦しようとします。


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2018年07月05日

春秋戦国 張儀2 楚の懐王は張儀の引き渡しを求る 張儀はあえて楚へ行き、寵姫を抱き込んで無事生還 蘇秦の死

 今こそ土地を貰うべきところですが、楚の懐王は「土地よりも張儀の生命が欲しい」と望みます。秦王は楚の望みを拒否しようとします(上司としては当然ですね)が、張儀はなんと自ら望んで楚に向かいます。

 張儀は懐王の寵姫へ、「秦は宰相張儀を救うために財宝に加えて美女の一団を贈る積もりです。そうなれば、王の貴方への寵愛はどうなるでしょうか?」と言わせます。

 寵姫の権力は、楚王に発するものです。寵愛が薄れれば、権力を失うどころか、生命まで奪われかねません。寵姫は寝物語に懐王へ張儀を許すように説き、結局懐王は張儀を放免しました。

 懐王の判断力の無さはここに記した通り、実に悲惨なものでした。死地を脱した張儀は秦に戻り、再び宰相に任じられます。

 前310年、斉で前年に死去した宣王の息子の?王が即位しています。「湣」という謚号は「閔」・「愍」と通じるそうで、「愍」の意味は難に遭うとか、民を悲傷させるといった意味とのことですから、悪謚ですね。

 悪謚を奉られるに相応しく、湣王の治世に斉は大きな災厄に見舞われ、湣王も悲惨な最期を遂げることになるのですが、それは後の話です。

 斉は強く、その力を削ぐことを狙って蘇秦は湣王に厚葬すべきことを説きます。燕のスパイとしてはしっかり働いていたのですね。

 前317年、斉で蘇秦が反対派によって暗殺されます。瀕死の重症を負った蘇秦は、自分が死んだ後、「蘇秦は燕のスパイで反逆を企んでいたことが判明した」として、遺体を市場で車裂きにしてくださいと願います。実際にその通りにしたところ、犯人が名乗り出ました。犯人は処刑されたそうです。

 口舌の徒蘇秦が死に臨んでなお、口先のテクニックで仇を討ったところは実に天晴であると評すべきかも知れません。

 蘇秦の最後のエピソードは実に興味深いですね。なにせ、彼は実際に燕のために行動していたわけですから。暗殺の下手人を探し出す策略でもあり、策略の言葉が自らの真の姿を明かす告白でもあるわけです。いかにも彼らしい最期であると言えましょう。


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