2018年06月01日

春秋戦国 公孫鞅3 変法の内容 なかなか守られない法を守らせるために公孫鞅はパフォーマンスを企画する

 鞭だけではなく、飴も用意しました。従軍した一般庶民の軍功に対し、特権を伴う爵位を与えます。功績がなければ資産があっても過度な贅沢は認めません。主君の一族すら例外ではなく、軍功がなければ地位を取り上げるという厳しさでした。

 法の改正案を作り上げると、実効性を持たせるために国の約束には守る価値があることを示すためのデモンストレーションを行います。南門に木の柱を立て、「この木を北門に移した者に10金を与える」と公布します。訝って誰も実行しません。次に、「この木を北門に移した者に50金を与える」と報奨金を増額します。疑いながらも実行した者が現れると、公孫鞅は直ちに50金を与えました。

 人びとは法を信じるようになっただろうと判断して法律を施行しましたが、なかなか守られません。1年経っても、太子の駟が自らが法を破る始末でした。

 「法律が守られないのは、高い位の者が法を守らないからです」

 公孫鞅はそう主張すると、太子の守役である公子虔を処罰し、教育係の公孫賈を入墨の刑に処しました。公子虔は後にも罪を犯し、鼻削ぎの刑を加えられ、激しく公孫鞅を憎むことになります。

 一罰百戒、支配者層にまで厳しく法が適用されることを見た人々は恐れ、法律が守られるようになりました。10年もすると、最初は不便だと言われていた法律が便利だと言われるようになります。最初は法を不便だと言っていた者で、後には便利になったとわざわざ公孫鞅に言いに来る者も現れます。公孫鞅は、法律を批判する者であるとして、辺境での強制労役刑に落としました。

 戦わなければ出世が叶わない、その代り戦功をあげればきちんと報奨が約束される――。公孫鞅の変法の下、秦は成長を遂げようとしていました。ただ、それにはまだ時間がかかります。暫くの間、斉に目を向けることにしましょう。

 斉に呉を強国に導いた孫武の子孫に孫臏(彼の名である「臏」は後に記す理由により本名ではないのですが、本名が伝わっていないので已む無くこう表記します)が誕生します。彼は孫武の子孫らしく兵法家を志し、鬼谷子なる人物に師事して兵法を学びます。同門にいたのが、龐涓という人物でした。


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2018年06月02日

春秋戦国 孫臏1 兵法を共に学んだ龐涓、自分より優れた才能を持つ孫臏を妬み、罪に落として足を切る

 龐涓は学び終えると魏に向かいます。そして恵王に気に入られ、将軍となりました。龐涓は孫臏より先に栄達を遂げたのではありますが、内心では自分は孫臏より才能が劣るため、ライバルになられては困ると思っていました。

そこで、龐涓は孫臏を魏に呼び寄せると、罪に落とします。

 古代中国の刑罰には、現代のような有期刑はありません。罪を犯した者は、見た目でそれと分かるように、肉体に罪人である証が刻み込まれます。罪が軽ければ入墨をされて労働刑に処されます。それより重くなれば、身体の一部を損壊させられる、肉刑と呼ばれる刑が与えられます。孫臏に下されたのは、顔に入墨を入れた後、足を切り落とす「臏」という刑でした。

 つまり、孫臏という名は「足切りされた孫」という意味です。本名であるはずがないのですが、この呼ばれ方が広まって、本名が失われてしまいました。

 罪に落とされ、自力ではその境遇から脱せない状態に陥った孫臏でしたが、斉の使者が魏にやってきた際に密かに面会、使者は孫臏の見識に感じ入り、密かに孫臏を魏に連れ帰ります。使者からすれば、自国の有能な士が他国で罪人扱いされているのですから、連れ帰りたくなるのは当然のことだったでしょう。

 この頃の斉は威王が治めていました。威王にも有名なエピソードがあります。

 威王は即位して9年間、政治を顧みることはありませんでした。9年後、即墨の大夫を召しだすと、「これまでそなたへの悪口をさんざん聞いてきたが、調べさせたところ、即墨は開墾が進み、よく治まっている。それなのに悪口ばかりなのは、君が他の者に阿らなかったからである」、というと、領地を与えます。次に阿の大夫を呼ぶと、「そなたが阿を治めるようになってから、何度もそなたを褒める言葉を聞いた。だが、調べさせると開墾は進まず人々は苦しみ、近隣に趙や衛の侵入があったときも対応できなかった。それなのに褒められてばかりということは、側近に手厚く贈り物をして栄達を求めたからであろう。煮殺せ」と命じました。


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2018年06月03日

春秋戦国 孫臏2 斉に入った孫臏は騎射のレースで田忌将軍を勝たせ、雄飛のきっかけを掴む

 阿の大夫と、阿の大夫を褒めた者は次々と煮殺され、以後威王は政治を行うようになります。楚の荘王の、3年鳴かず飛ばずにそっくりの逸話ですね。

 前355年、魏の恵王が斉に行き、威王と狩りに出かけます。恵王は12乗の馬車を飾る珠を自慢し、貴方もさぞ多くの宝を持つでしょう、と威王に対して嫌らしい質問をします。威王は、「私はそのような宝を持ちません」と返事します。魏王は「万乗の君が宝を持たないなどということがありましょうか」、と食い下がります。威王は具体的な臣下の名前と功績を列挙し、「我が国には任地で職責をよく果たし、他国の侵略を防ぎ、賊の跋扈を防ぐ者がおります。それこそが我が国の宝です」、と応じました。魏王は恥じて去ったと伝えられます。

 前者のエピソードは陰険で好きになれませんが、後者のように部下の仕事をきちんと見て、評価してくれる点は良い君主に思えます。

 孫臏が斉に入った頃は、この王の下斉が羽ばたこうとしている時期でした。孫臏は王族の1人である田忌の客となります。田忌に目をかけられるきっかけになったのが、賭けの指南でした。

 当時、騎射競走が人気だったそうです。といっても、当時はまだウマに乗って駆けることは行われていなかったはずなので、戦車に乗った兵士が弓を射たのでしょう。賭け主はそれぞれ3つの馬車を用意し、3レースを行います。

 田忌が斉の威王とこの騎射レースを行う際、孫?は「貴方様を必ず勝たせて差し上げます」と告げます。

 両者のウマは実力が伯仲していますが、それぞれ上、中、下のウマでは実力に差があります。そこで、斉王の上のウマにこちらの下のウマを当てて1敗する代わりに、相手の中のウマにこちらの上のウマ、相手の下のウマにこちらの中のウマを当てれば必ずや2勝できる、という作戦です。田忌は孫臏に従い、賭けで大金を得ます。

 この程度の作戦は誰もが考えつくでしょうから、このエピソードはニュートンがリンゴが落ちるところを見て万有引力の法則を考えついたという「お話」と同じく、物事を分かりやすく説明するためのフィクションなのでしょう。


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2018年06月04日

春秋戦国 孫臏2 孫臏が亡命した時期の斉の君主、威王という人物 孫臏は田忌の客となり、あるきっかけで気に入られることになる

 阿の大夫と、阿の大夫を褒めた者は次々と煮殺され、以後威王は政治を行うようになります。楚の荘王の、3年鳴かず飛ばずにそっくりの逸話ですね。

 前355年、魏の恵王が斉に行き、威王と狩りに出かけます。恵王は12乗の馬車を飾る珠を自慢し、貴方もさぞ多くの宝を持つでしょう、と威王に対して嫌らしい質問をします。威王は、「私はそのような宝を持ちません」と返事します。魏王は「万乗の君が宝を持たないなどということがありましょうか」、と食い下がります。威王は具体的な臣下の名前と功績を列挙し、「我が国には任地で職責をよく果たし、他国の侵略を防ぎ、賊の跋扈を防ぐ者がおります。それこそが我が国の宝です」、と応じました。魏王は恥じて去ったと伝えられます。

 前者のエピソードは陰険で好きになれませんが、後者のように部下の仕事をきちんと見て、評価してくれる点は良い君主に思えます。

 孫臏が斉に入った頃は、この王の下斉が羽ばたこうとしている時期でした。孫臏は王族の1人である田忌の客となります。田忌に目をかけられるきっかけになったのが、賭けの指南でした。

 当時、騎射競走が人気だったそうです。といっても、当時はまだウマに乗って駆けることは行われていなかったはずなので、戦車に乗った兵士が弓を射たのでしょう。賭け主はそれぞれ3つの馬車を用意し、3レースを行います。

 田忌が斉の威王とこの騎射レースを行う際、孫臏は「貴方様を必ず勝たせて差し上げます」と告げます。

 両者のウマは実力が伯仲していますが、それぞれ上、中、下のウマでは実力に差があります。そこで、斉王の上のウマにこちらの下のウマを当てて1敗する代わりに、相手の中のウマにこちらの上のウマ、相手の下のウマにこちらの中のウマを当てれば必ずや2勝できる、という作戦です。田忌は孫臏に従い、賭けで大金を得ます。

 この程度の作戦は誰もが考えつくでしょうから、このエピソードはニュートンがリンゴが落ちるところを見て万有引力の法則を考えついたという「お話」と同じく、物事を分かりやすく説明するためのフィクションなのでしょう。



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2018年06月05日

春秋戦国 孫臏3 魏が趙を攻め、援軍を求められた斉は田忌を将軍、孫臏を軍師とする援軍を派遣する

 田忌は孫臏が優れていることを認め、斉の威王に推薦しました。

 前354年、魏が趙に攻め入り、趙の首都邯鄲を包囲します。趙は斉に助けを求めました。威王は援軍を出すことを決め、孫臏を大将に任じようとします。しかし、孫臏は「私は刑罰を受けた不具者で、将に適しておりません」と辞退します。そこで、田忌が総大将、孫臏が軍師という布陣で援軍が送られました。

 田忌は早速、趙に向かおうとします。しかし、孫臏は「もつれた糸を解くのに力任せに引っ張ってはいけません。人の喧嘩を助けるのに直接加わってはいけません。敵の虚を衝けば相手の形勢を崩し、有利に運ぶものです」と田忌を押し留め、以下の策を授けます。

 「魏の精鋭部隊は出払っていて、魏国内には老兵を始め戦力に劣る兵士しか残っていません。防衛力の弱まった魏を攻撃して要路を抑えてしまえば遠征軍は引き返さざるを得なくなります。魏を攻めれば趙を救い、自軍を有利に展開可能です」

 孫臏の読み通り、魏本国が攻撃を受けたことを知った魏軍は趙の包囲を解いて本国防衛に戻ります。しかし、魏軍の行動を読み切っていた斉軍は桂陵で魏軍を今や遅しと待ち構えていました。逸を以て労を待つ、おまけに有利な地を占める斉軍は魏を散々に打ち破りました。これを桂陵の戦いと呼び、この故事から敵の虚を衝いた攻撃を行うことで目的を達成することを囲魏救趙と呼びます。

 さて、桂陵の戦いで敗北を喫したとは言え、まだ魏が強国であることは変わりありません。

 前351年 魏で夏正と呼ばれる暦が使われるようになります。『世界の歴史 (2) 中華文明の誕生』はこう解説しています。

このころ始まった夏正と総称される暦は、いまの旧暦の先駆にあたるが、その夏正で前年末になる当時の日干支が丁亥であり、しかも朔になった。この冬至朔丁亥が魏の暦の起算点になった(冬至月を十一月に固定)。これをもって中国史上はじめて計算によって作成される暦が出現した。


世界の歴史 (2) 中華文明の誕生
世界の歴史 (2) 中華文明の誕生


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