2018年05月31日

春秋戦国 公孫鞅2 秦に入った公孫鞅、孝公の信任を得て変法にとりかかる

 果たして公叔座の予想通り、恵王は「公孫鞅を重く用いろとは、公叔座の病もいよいよ重いようだな」と言って別の者を宰相に付け、公孫鞅のことも放置しました。

 公叔座と言えば法家の呉起を追放した当の本人であるのに、法家の公孫鞅を高く用いることを求めるあたり、面白いですね。あるいは宰相として長く政治の中枢にいる内に、考えを変えたのかも知れません。

 さて、公叔座の死後も魏に留まっていた公孫鞅に、秦の考公が富国強兵を目指して人材を求めていると聞き、西へ向かいます。秦の考公は魏に押されて失った領土を取り戻すため、国外からも人士を集めようとして有能な士には土地を与え、爵位を約しました。

 秦に入った公孫鞅は、宦官の景監を伝手に考公と面会します。

 ところが、公孫鞅が訥々と話をしても孝公は居眠りをする始末です。会見後、景監は公孫鞅を責めますが、彼はどこ吹く風、再び孝公との面会を求めます。5日後に与えられた2度めの機会でしたが、孝公はやはり欠伸をするばかりでした。今回も、景監は公孫鞅に文句を言いますが、公孫鞅は次は上手くやるからと、もう一度景監を説得します。

 今度は孝公も公孫鞅の話に興味を示し、更に翌日の会見では孝公は公孫鞅の話に身を乗り出し、時間を忘れて話し込みました。

 怪訝に思った景監は、主君の態度の変わりようはどうしたことかと公孫鞅に問います。公孫鞅は「最初は古の帝の道を説きましたが、公には関心が無いようでした。そこで次はレベルを落として王道を説いたのですが、こちらもピンとこないご様子。そこで、更にレベルを落として覇者の道を説くと、公は気に入られたようなので、秦を強国にする術を申し上げたのです」と答えました。

 前356年、孝公は公孫鞅を左庶長という位に就けて、変法を任せます。

 公孫鞅は人びとを10人または5人単位の隣組に組織します。そして組員の犯罪に対して連座制を適用しました。組員の犯罪を知りながら黙っていれば、腰斬という残忍な処刑が行われます。犯人隠避以外にも、法に従わない者には肉体を毀損する厳しい刑罰(肉刑)と労働刑が加えられました。肉刑は後に漢の文帝が廃止するまで続くことになります。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村