2018年05月29日

春秋戦国 墨守 呉起の死後、陽城君の城を守っていた墨家集団は敗北が決まると集団自殺を遂げる

 墨家は成長を続け、儒家と人気を二分するほどになりますが、やがて、巨大化した教団は、勢力争いを始めます。荘子によると、儒家は相里氏とケ陵氏のグループに分裂し、互いに間違った派閥だと非難しあい正統性を争ったそうです。更に相夫氏の一派が加わり、3派に分裂します。

 それでも、墨家としては活動地域を広げていきます。当初は魯を中心に、斉、楚、越など東部と南部に偏っていたのが、後には秦や中山でも活動するようになっているのです。

 しかし、墨家は秦による統一後、始皇帝による挟書の律や焚書によって急速に姿を消していきます。『諸子百家 (講談社学術文庫)』は、墨家集団がかえってその集団性・組織性が災して一網打尽となり、弾圧の被害が最も大きかったこと、常に全世界的視野にのみ立ち、個人的信条としてはほとんど意味を成さない墨家思想特有の強烈な社会性の故に、漢代以降、諸学派が形を変えて復興する中にあって、ひとり墨家だけは、再生することなく絶学への道を辿ることになったことが消滅の理由としています。秦による、僅かな統一期間が墨家集団には致命的な影響を与えたのでした。

 話がずいぶんと先に進んでしまいましたね。何の話をしていたのかと言うと、呉起が殺された後、その暗殺に関与した陽城君の領地が攻められ、それを墨家が防衛したという話でした。

 陽城君はかねてから第3代の鉅子である孟勝と親しく、彼に防衛を委ねていました。楚王の軍は多く、孟勝は奮戦叶わず敗北します。孟勝は契約を守れなかったことの責任を取り、防衛に当たった墨家集団で集団自殺することを提案します。除弱という人物は墨家が絶えることを恐れて反対しますが、孟勝はここで生き残れば墨家の信頼が失われて墨家も滅亡するであろうこと、宋の田襄子が衣鉢を継いでくれるであろうとして自説を補強します。

 除弱はそれを聞くと、集団自殺反対論を撤回し、率先して死に赴きました。また、残った墨者180人と孟勝も自殺します。集団自殺から生き残ったのは、田襄子にこの経緯を伝えるべく派遣された2人の墨者だけでした。その彼らは、田襄子に全て伝え終えると、田襄子の制止を振り切り、楚に戻って自害します。

諸子百家 (講談社学術文庫)
諸子百家 (講談社学術文庫)


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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