2018年05月22日

春秋戦国 墨子3 天帝を敬うことを説く一方、葬式は簡素にしろと現実を大切にする しかし、音楽に熱中せず働けと、ちょっと息苦しそう

 儒家と大きく異なるのは、孔丘が「怪力乱神を語らず」と、超越的な存在について触れなかったのに対し、墨翟はそうした存在を畏れ敬えとすることで実在を認めているところでしょう。それなのに宿命を否定する、というのは墨翟の中でどう折り合いを付けていたのか、なかなか面白い気がします。

 もう1つ、儒家と大きく異なるのは葬式を 華美にするな、というものですね。現代日本では不思議ではない考えでしょう。少なくとも、私は自分の周りで、親が死んだから3年間働きません、飲み会にも出ません、という方を見たことがありません。しかし、当時は違いました。儒家は大げさにしても、大切な人の死後の生活が困らないようにと、副葬品に仕事道具まで入れる程でした。まだ儒教が国境となる前の、秦代の墓から出てきた副葬品のお蔭で当時の法律について分かることがあるということについては後に触れる予定です。

 葬式が手厚いものだったことは、葬式を質素に行なえと遺言した曹操の墓から実に豪華な副葬品が出てくることからも分かります。厚葬は当たり前と考える社会で、儒家が主張するように親が死んだら3年間喪に服せ、となると大変なことです。その間は働いてはならないのです。働かないからといって遊ぶことも禁止です。そりゃあ晏嬰に批判されますよ。

 儒家と墨家はその教えの内容に大きな隔たりがあるのです。それは一見すると同じ教えに括れそうな部分にも内在しています。ですから、墨家が儒家を激しく批判したと聞いても驚くことはないでしょう。

 例えば、儒家が上天には明察力がないと主張することで上天を怒らせていること、葬儀を厚くすることは財を消費し労働力を霧消させること、音楽に熱中して他に使うべき資源を浪費させてしまうこと、宿命論を唱えることでそれを受け入れた人間の勤勉さを失わせること、等々。

 音楽も楽しまずに働けとはどんなブラック企業なのかと思わなくもないのではありますし、不可知論者の私からすれば天に明察力があるというのは厳密な証明があるわけではないので受け入れがたいといった点がありますが、少なくとも生産物を大事にしようという点で墨翟の論の方が私は気に入っています。



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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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