2018年05月21日

春秋戦国 墨子2 生没年は不詳でも、活躍の時期は推測可能 墨翟の唱えた10の論

 例えば、魯陽の文君が鄭を攻撃しようとした際に中止を求めている事例です。魯陽の文君は、「鄭の人々は哀公・幽公・繻公と3代に渡り弑逆し、天はその振る舞いに対して3年間の凶作を見舞った」と語っています。繻公弑逆は前396年のことですから、そこから3年間の凶作があったとすれば会談は前394年か前393年になります。

 また、斉の田和に会見したことが記録されています。田和の在位期間は前386年〜前385年ですから、この時には存命だったのですね。そして呉起が死んだ前381年直後であろう、 陽城君の領地攻めの時には別の人物が3代目のリーダー、鉅子を務めていました。このような事実から、『墨子』は墨翟の活躍年代は前450年ごろから前390年ごろまでと推測しています。

 その活動の中心は、孔丘と同じく魯を中心にしていますので、魯出身かもしれません。

 当初は儒家に学んだようですが、教えに不満を抱いて新たな学派を作りました。それが墨家で、儒家と大きく異なるのは、儒家が親子や君臣といった上下の関係を重視した(だから、親の仇は倶に天を戴かず(不倶戴天)と、最も激しい表現になるわけです)のに対し、墨子は誰に対しても隔てのない愛情こそが全体を平和にするという兼愛を唱えたことでしょう。

 兼愛について、『墨子』は墨家が兼愛論を説く目的は、世界の混乱を収拾して、新しい安定的秩序をもたらそうとする一点にあると説明しています。利己主義こそが全ての問題の背後にあるため、自分と同じように他人を愛することを求めたわけです。

 墨翟の教えは、十論と呼ばれる10の主張からなっています。

尚賢 能力主義 教養や徳性ではなく、官僚テクノクラートとしての能力
尚同 統治者に従う
兼愛 自分と他人を等しく愛する
非攻 侵略戦争の禁止
節用 節約
節葬 厚葬を行うべきではない理由
天志 
明鬼 天帝や鬼神を畏れ、従う
非楽 音楽への耽溺の戒め
非命 宿命を否定

 賢者を登用せよとする点では儒家と同じように見えます。しかし、儒家のいう賢者とは、仁やら礼が云々といった感じで、指導者の内面の成熟を求めて実利を求めることは無かった一方、墨家は労働とその成果を尊んでいます。賢に求める中身は全く異なります。

墨子 (講談社学術文庫)
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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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