2018年05月14日

春秋戦国 魏の興隆3 兵法家の呉起、魯で将軍となるが、失脚して魏を頼る

 文侯に仕えた中でもとりわけ有名なのが、兵法書『呉子』を著した呉起でしょう。

 呉起は衛出身で、孔子の弟子の曾子(孔子の孫の子思が曾子に学び、子思が孟子に教えたため、孔子と孟子を繋ぐキーパーソンとなりました)の門下に学びます。その最中に、母が亡くなります。

 常識はずれの厚葬を唱える儒家のことですから、呉起は当然、母の葬儀に参加することが求められました。ところが、呉起はかつてうだつの上がらぬ浪人時代に家財を使い果たし、それを莫迦にした者を30人以上も殺害していたこともあり、故郷には帰れぬ身の上でした。曾子は呉起を破門します。

 呉起は魯の元公に出仕して将軍に任じられました。その矢先、斉が魯に軍を向けます。当然、呉起の出番ですが、彼が斉人の妻を娶っていたことから、呉起に対する疑いが囁かれます。呉起は妻を殺すことで疑いを晴らすと、魯軍を率いて斉軍を打ち破りました。

 出世のためなら妻を殺すことも辞さない姿にいささか鼻白むのは、何も現代の我々だけではありませんでした。先の楽羊同様、親族に対しても冷酷に振る舞うことができる者が、果たして忠義の士であり続けるでしょうか?

 結局、呉起は魯で居場所を失い、有能な者を集めていた魏の文侯を頼ったのです。

 文侯は家臣の李克に、呉起を用いるべきかどうか尋ねます。李克が「呉起は貪欲で好色ですが、兵法に関してはかの司馬穰苴すら上回ります」と答えたことが決め手となり、文公は呉起を召し抱えることになりました。

 呉起は秦を撃って5城を落とすという快挙を成し遂げ、西河の太守となって秦、韓に備えました。

 なぜ、呉起はこれほども戦が上手かったのでしょうか。それは、呉起が厳しく規律を守らせるのと同時に、親身になって兵士のために尽くしたからです。

 行軍中は兵士と同じものを着、同じものを食べ、同じところに寝ました。傷口が膿んだ兵士がいると、自らの口でその膿を吸い取ったというのです。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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