2018年05月06日

春秋戦国 晋の崩壊2 智伯の要求を拒んだ数奇な出自を持つ趙氏のリーダー趙無恤

 こうして力を握った智伯瑶は、晋公に取って代わるという野望を抱くようになります。

 まず智伯瑶は韓と魏に土地を要求します。韓虎と魏駒は次のターゲットにされては叶わぬと土地を与えました。続いて知氏は趙にも土地提供を要求しますが、趙無恤(諡号が襄であることから、趙襄子と呼ばれることもあります)は拒否しました。

 趙無恤は少々変わった出自を持っています。彼の父は先に述べた趙鞅で、その母は異民族である翟族出身の側室です。おまけに趙無恤は末子でした。当時の序列に従えば継承権など無いも同然でしたから、本人含め、誰も趙無恤が趙家のリーダーになるとは思っていませんでした。ある時、趙鞅が人相見を招いて子供たちを見せます。人相見は誰も将軍になれないと予言しますが、この時に趙無恤だけは人相見に見えていませんでした。最後に末子趙無恤を人相見に見せると、人相見は趙無恤は大成すると予言します。

 偏差値もセンター試験どころか科挙も九品官人法も無い時代、人相見は単なる占いでは済まない意味を持ちます。それは、高位高官にある者への人物評であり、当然のこととして個人の栄達と深い関係がありました。

 後の三国時代前夜の話になりますが、人相見の許劭が甥の許靖と共に毎月1日に開いた人相見の会(彼らはそれを月旦評と呼びました)の影響力は極めて大きなものでした。曹操が許劭のもとへ押し掛け、半ば無理やり「君は治世の能臣、乱世の奸雄だ」との評を得て喜んだのも、そうした背景があるからです。

 さて、人相見からの好感触の言葉を貰った趙無恤でしたが、さすがにそれだけでは跡継ぎに指名されるはずもありません。

 後日、趙鞅は子供たちに「常山の頂上に宝を隠してある宝を見つけた者に褒美を与える」と約束します。趙無恤以外の子たちは誰も宝を見つけることができませんでしたが、趙無恤だけは「常山の頂きからは代を望むことができます。代は、奪うことができます」と答え、父のお眼鏡に適います。こうして趙無恤は父の死後に趙一族を束ねることになったのでした。長男の趙伯魯はどうやら無欲な人物だったらしく、弟の無恤が後継者となったことを喜んで認めています。


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ラベル:中国 春秋時代
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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