2018年05月16日

春秋戦国 魏の興隆5 文武に優れた功績を上げた呉起、若い君主の下での宰相には向かず、宰相の座を諦める

 文侯のもとを退出した李克のところへ、李克が次の大臣について問われていると聞いた翟璜がやってきます。そして、「次の大臣は誰に決まっただろうか?」と問います。李克は、ライバルの魏成に決まるだろうと答えました。翟璜は怒ります。「呉起も西門豹も楽羊も私が推薦し、中山を治めるのに適した人物として貴方を推したのは私ではないか」と詰りました。

 李克は「貴方が私を推薦してくれたのは主君に阿り、貴方が出世するためだったのでは無いのですか?魏成の推した人物はいずれも文侯が師として教えを仰ぐ方々で、貴方が推した人物はいずれも部下として使っています。どうして貴方が魏成と争うことができるでしょうか」と応えました。これには翟璜も返す言葉が無かったそうです。

 多くの名士を抱えて魏を興隆に導いた文侯が亡くなり、まだ幼い武侯が即位します。

 武侯は宰相を置くことにしますが、その栄誉ある座には西河の太守として飛ぶ鳥を落とす勢いの呉起ではなく、田文が任じられました。呉起はとても納得ができず、田文にどちらが宰相に相応しいかと詰め寄ります。

呉起「三軍の将となり、兵士を束ね、敵の意図を挫く点で、私と貴方のどちらが上か?」
田文「貴方だろう」
呉起「百官を取り仕切り、民に親しみ、官庫を満たすのはどちらが上手いだろうか?」
田文「貴方だろう」
呉起「西河を守り、秦の東進を防ぎ、趙、韓に睨みを利かせるのはどうか?」
田文「貴方だろう」
呉起「この3つの全てで私は貴方を上回るというのに、どうして位は貴方のほうが上なのか」
田文「では、君は幼く国の者は不安に思い、大臣は心服せず、人民からの信望もない。このような状況において、どちらが宰相に相応しいだろうか?」

 呉起は暫し考え込んだ後、「貴方でしょう」と認めました。田文は、「だからこそ、私が宰相に任じられたのです」と言い、会話を締めくくったそうです。呉起は野心が強すぎ、そして功績が巨大過ぎて警戒を生まずにはいられなかったのでしょう。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月17日

春秋戦国 呉起の死1 失脚して楚に逃れた呉起による改革と、庇護者悼王を失った直後の死

 狙った地位が得られなかったからといって、任務を放棄する呉起ではありません。

 武侯が西河を訪れ、呉起と共に船で川を下った際のことです。武侯は西河が天然の防御ラインになっていることに感嘆し、「これぞ国の宝である」と言います。ところが、呉起は「いいえ、国の宝は徳です。三苗氏は洞庭湖と?陽湖の間にありましたが徳がなかったため禹に滅ぼされ、夏の桀王は川と山にの険阻に守られていましたが徳がなかったため湯王はこれを放逐し、殷の紂王も同様に天嶮の地にありましたが徳に欠けたため武王に殺されました。全ては徳です。険阻ではありません」と応え、武侯を唸らせました。

 あるとき、武侯が部下を相手に議論を行い、言い負かし得意そうにしていました。呉起は、楚の荘王は同じようなことがあったとき、有能な部下がいないことを憂いたと武侯を諌めてもいます。

 そんな呉起でしたが、田文が死んで公叔が宰相を継ぐと、讒言を受けて武侯に疎まれるようになります。身の危険を感じた呉起は魏を去り、楚の悼王の下へ赴きます。

 かねてから呉起の高名を知っていた悼王は呉起の亡命を受け入れ、変法を委ねました。楚は面積こそ広いのですが、いかんせん人口が少ないという弱点を抱えています。そこで、呉起は王族や貴族を地方に赴任させて開墾させたり、貴族も3代までしか続かせないようにしてカネを中央に集めることで、中央集権と国土の開発を図ります。

 貴族たちは猛反発しましたが、悼王が呉起を信任しているため、従うしかありません。呉起は恨みを買っていることなどなんのその、兵士の給与をあげ、南方では越に勝利を挙げ、北方では陳と蔡を併呑し、三晋を退け秦を伐つと、名将ぶりを遺憾なく発揮します。

 ところが、前381年に呉起の庇護者であった悼王が亡くなります。すると、その葬儀も終わらないうちに貴族たちがクーデターを起こしました。刺客に追われた呉起は、悼王の遺体が安置されている部屋に逃げ込むと、その遺体に覆い被さりました。そこに、刺客たちの矢が放たれます。無数の矢が呉起を貫き、彼は自分を庇護してくれた悼王の遺体の上で死にました。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月18日

春秋戦国 呉起の死2 後世における呉起の評価 司馬遷は割と冷たい評価だが、法家の先駆けとして高く評価する者も

 呉起を貫いた矢は、悼王の遺体をも傷つけていました。悼王の子の蔵が即位すると、父の死体に傷を付けたとして呉起暗殺に関与した貴族70余りの一族が滅亡に追いやられています。

 貴族たちは、呉起の生命を奪っただけでは済ませず、呉起の改革を廃絶させ、旧に復しました。この反動は、大局的に見れば楚が大国になる道を閉ざすものだったと言えるでしょう。

 『史記』孫子・呉子列伝は、「楚の国においてかれのやったことは、残酷で人情に欠けたため身をほろぼしたのであった。悲しいことではある」と評しています。一方、『孫子・呉子 (中国の思想)』は呉起をこう評しています。

 
かれの時代は、戦国乱世がその極に達して人民は苦しみ、新しい統一にむかって、前述のような変革(引用者注:各国が富国強兵を目指し、中央集権化を進めていたこと)がおこりつつあった。世襲的な私門による支配を排し、法制の整備によって近代化をはかろうとしたのが法家思想であり、呉起はその先駆のひとりであったのだ。


 また、中華民国の政治家で歴史家でもある郭沫若(日本に留学し、九州帝国大学の医学部で学んでいます)も呉起を高く評価しています。上掲書に引用されているものを孫引きします。

「かれの不幸は、悼王の死があまりに早かったことにあるのだと思われる。もしも悼王の死が遅れて、少なくとも10年の執政期間がかれに許されたならば一切が安定して、かれの功績は決して商鞅(筆者注・秦の基礎をきずいた法家)に劣らなかったであろう。戦国時代の局面は主として秦と楚との争覇であるから、呉起の覇業がもしも楚国で成功していたなら、後に中国を統一したという功業は必ずしも秦人の手におちるとは限らなかったであろう」(郭沫若『十批判書』。『中国古代の思想家たち』として邦訳、岩波版)

(但し、引用者により漢数字はアラビア数字に置き換えました)

 志半ばで暗殺された呉起でしたが、兵法書が後世に残されています。韓非子に家ごとに孫呉の書を持つとあるほど、孫子と共に広く読まれたそうです。

孫子・呉子 (中国の思想)
孫子・呉子 (中国の思想)


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月19日

春秋戦国 呉起の兵法 規律を守ることだけではなく、兵士を大切にすることの重要性を説く異色の兵法家呉起

 折角の機会なので、呉子の兵法書についても触れましょう。

 興味深いのは、「古代の国家を図る者は、必ず全ての者にまず教えを施し、その後に紐帯を強化した」と、明確に教育の重要性を問いているところです。後に触れる老子は愚民思想で、民を教育してはならないと説いています。この大きな違いがまず面白く感じられます。

 戦争に置いては、開戦前には祖霊に報告し、占いを行い、条件が整っているかを確認して、全て問題ないとなってからでなければ開戦すべきではない、とします。そうすれば、兵士たちは君主が自分たちのことを思ってくれることを知るので、その上で艱難辛苦を共にして難関に当たれば兵士たちも必死に戦う、と説くのです。呉起が兵士からの厚い信頼を受けて連戦連勝したことを考えると、実に経験に裏打ちされた理論であると思います。

 人民に力を尽くさせるためには、君主を人民に親しませなければならないという点から、呉起は道、義、礼、仁を実行すべしと説いています。呉起は法家に属するとされますが、この点だけを見れば儒家にも見えますね。そのキャリアのスタートにあたり、儒家の門を叩いたことの歴史が垣間見えます。

 勿論、軍令がきちんと行き届くだけの秩序が整っていなければ、軍隊は烏合の衆に堕してしまうため、規律を守らせることの重要性も説いています。

 孫子と同じように、戦争が与える経済的なダメージの大きさにもきちんと言及し、何度も戦いを行い連勝することは危険でも有るとしているあたり、戦争の実務に当たる人々は同じ思いを抱いていたのかも知れません。

 最後に、リーダーたる者の心得について呉起が書いていることを紹介して、彼についての項を終えることにします。

将の心すべきことが5つある。
1.理(管理)、2.備(準備)、3.果(決意)、4.戒(警戒、自戒)、5.約(簡素化)
「理」とはどんなに部下が大勢いても、それを一つにまとめることである。
「備」とは、ひとたび門を出た以上、至る所に敵がいるつもりでかかることである。
「果」とは、敵と相対したとき、生きようという気持ちをすてることである。
「戒」とは、たとえ勝っても緒戦のような緊張を失わないことである。
「約」とは、形式的な規則や手続きを省略し、簡素化することである。
(『孫子・呉子 (中国の思想)』)

孫子・呉子 (中国の思想)
孫子・呉子 (中国の思想)



面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月20日

春秋戦国 墨子1 墨家を開いた墨翟とは何者? 史書は黙して語らないが、どうやら中流以上の出身なのは間違い無さそう

 部下が居る人であれば、将軍ならずとも通用することのような気がします。勿論、生きようという気持ちを棄てなければいけない職場はそうそうあるわけではないと思いますし、そもそも何でもビジネスに結びつけようとするのは私の好むところではないのでここまでにしておきましょう。

 呉起が暗殺された後、悼王の遺体を傷つけたとして貴族70余家が滅ぼされた際、1つの興味深い逸話が見られます。呉起殺害の一味である陽城君は、処刑される前に出奔します。楚の粛王は陽城君の領地を没収すべく、軍を派遣しました。この時、陽城君の領地を墨家が防衛しようとしたのです。

 ここで、迂遠にはなりますが、墨家について記しておきましょう。

 墨家を開いた墨翟について、詳しいことは分かっていません。生没年も分からなければ、出自も詳らかではありません。「墨」も名字ではなく、入墨をされた、すなわち刑徒だったことを意味するのではないかとの説があります。古代中国では罪人であることがひと目で分かるように、罪人には入墨をしていたのですね。ただし、墨翟が罪人だったとはっきり示す史料は存在しません。

 『諸子百家 (講談社学術文庫)』は魯問編において自ら耕し、自ら織り、自ら兵士となってみたが、1人で行う作業に限界を感じて天下の教化に励むことにしたとあることを引き、農夫でも兵士でもない身分ではなく、かといって王侯将相とも異なる下級武士だったのではないかと推測しています。後に見るように、彼は防衛戦に関して深い知識を持つこと、兵器の設計や戦場における使用方法に詳しいことから、下級武士あるいはもっと高い身分だったのかもしれないとも思います。最低限言えることは、先王の道を学んだとあることから、少なくとも一般庶民よりは上の階級出身だったことです。当時、庶民には教育を受ける機会などありませんでしたから。

 生没年は不詳ですが、墨子に見える記事から、活躍したおおまかな時代は分かります。

諸子百家 (講談社学術文庫)
諸子百家 (講談社学術文庫)


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村