2018年05月11日

春秋戦国 春秋戦国の分岐点 諸説と韓魏趙が諸侯に封じられた前403年説

 智氏が滅んだのが453年(『世界の歴史〈2〉中華文明の誕生』は史料批判の結果から、前451年とします)、その後も晋の3卿支配は揺るがず、前403年には韓、魏、趙が正式に諸侯に認められます。

 日本では前453年に晋が3卿の実質支配に落ちた時点またはこの前403年の3卿の封公をもって戦国時代の始まりとされることが多いようです。勿論、前453年または前403年に、突如として中国社会のあり方が大きく変わったわけではありません。連続的な変化の中の一点を切り取ろうというのですから、異説はあります。

 例えば、春秋時代の名のもとになった魯の年代記『春秋』が前481年までで記述が終わっていることから、それ以降が戦国時代である、とするごもっともな意見があります。中国では春秋左氏伝の記述の終わる前468年または史記六国年表の始まる前476年とされることが多いそうです。

 前403年を戦国時代の開始とすることで有名な本は、宋の司馬光が皇帝に献じた『資治通鑑』でしょう。

 『資治通鑑』は、臣は常に自ら揆(はか)らず、冗長を削り、要点を撮(つま)み、専ら国家の盛衰に関わり、人民の喜憂に繋りますもの、法となすべき善事、戒めとなすべき悪事を取り、編年の一書を作り、先後に脈絡があり、精粗が不均等になりませんようなものを作りたい(『中国文明選〈1〉資治通鑑 』)という実に高い意識で記されたものです。

 冗長であろうと、要点が絞れてなかろうとも、専ら私が面白いと思うものを取り上げ、脈絡がなく、好きなものは詳しく書くが興味がなければ冷淡という私のスタンスとはまったく正反対であります。司馬光は同書の中で「性識は愚魯、学術は荒疎でありまして」とあることは、自称のレベルでは同じですが、私の場合には自他共に認めるという奴で、司馬光は皇帝への献辞における当然の謙遜という違いがあるわけです。しくしく。ですが、私は司馬光ですら、1人の巨人としてその肩の上から歴史を眺めることができるのです。後世に生まれることの甚だしいメリットはこれに尽きますね。

 さて、『資治通鑑』は、諸侯が君主の力を奪った現実に対して周王室が現実を認めることで、周が秩序を保つ力を失ったことが白日の下に晒され、また大義名分を失ったとして、事実上この時点で周が滅んだとしたわけです。

 歴史的な秀才、司馬光の権威に従うというわけではありませんが、ここでは晋が分裂した3国が諸侯に封じられた前403年を指すことにします。次回から、戦国時代を見ていくことにしましょう。

世界の歴史〈2〉中華文明の誕生 (中公文庫)
世界の歴史〈2〉中華文明の誕生 (中公文庫)

中国文明選〈1〉資治通鑑 (1974年)
中国文明選〈1〉資治通鑑 (1974年)


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2018年05月12日

春秋戦国 魏の興隆1 戦国時代の名の元になった『戦国策』 魏の文侯、名士を集めて魏を強国に導く 楽羊の中山攻め

 戦国時代の名前は『戦国策』から採られたものです。『戦国策』は 、漢の高祖劉邦の同母弟または同父弟である楚の元王劉交の4男という出自の劉向が、息子の劉歆と共に『国策』や『国事』という名で編まれていた戦国時代のエピソードをまとめたものです。

 漢朝は、秦の始皇帝の焚書・坑儒のあとを受けていましたから、成帝は、河平3年(前26)、命をもって、ひろく書物を献上させ、あるいは、使いを派遣して、亡逸した書物の収集を始めるいっぽう、朝廷所蔵の書物の校定を、この劉向に命じました。
戦国策 1 (東洋文庫)』(但し、引用者にて漢数字をアラビア数字に置き換えた)

 劉向は、重複を省いたり国ごとに話を纏めて順序を直してまとめ上げると、戦国時の遊説の士が、その用いられた国をたすけ、その国のために策謀しているのでございますから、『戦国策』と名付くべきでございましょう(『戦国策1』)と上奏、それがタイトルとなったものです。

 ですから、当然のことながら、戦国時代に生きた人々は「現在が戦国時代である」などとは思っていなかったわけです。

 先述の通り、春秋時代の終わり頃にはそれまでとは社会が大きく変わっていました。晋の崩壊は、時代の移り変わりを目に見える形で表す出来事でした。

 戦国時代に入って、まず勢力を伸ばしたのは魏です。魏は文侯が人材の招聘に努め、戦国の七雄の中でも大きく力を伸ばします。

 前407年、楽羊に命じて現代の河北省中西部にあった中山を攻めます。中山は異民族の白狄の国で、鮮虞の名で史書に現れる国です。

 中山には楽羊の息子がいました。攻撃側の将が楽羊であることを知った中山は、楽羊の息子を殺し、その肉でスープを作って楽羊に届けさせます。士気を挫くことを狙った作戦でしたが、なんと楽羊は平然とスープを飲み干し、攻撃を続けました。間もなく都は陥落、楽羊の忠誠を嘉した文侯は戦勝を讃え、彼に中山の都であった霊寿を与えました。

戦国策 1 (東洋文庫)
戦国策 1 (東洋文庫)


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2018年05月13日

春秋戦国 魏の興隆2 鄴の県令となった西門豹、乙女を生贄に捧げる儀式を止めさせるため、巫女や高官を片っ端から黄河に沈める

 ところが、文侯の側近が「楽羊は息子の肉でも平然と食べることができる人間です。誰の肉を食べても不思議はないでしょう」などと中傷します。誰の肉を食べても、というのは、暗に「君主を殺してその肉を喰らうことだって平気だろう」という意味が込められているわけですね。

 文公は結局、楽羊を疑うようになり、彼はそれ以上活躍を見せる機会は与えられませんでした。楽羊とその一族は霊寿付近に住み着いたようで、後に彼の子孫に楽毅がこの地に生まれ、燕に仕えて斉を滅亡寸前にまで追い詰めることになります。

 なお、一度は滅亡した中山でしたが、山中に逃れた桓公が20年にも渡るゲリラ戦を繰り広げ、国を再興することになります。

 領土を拡張するだけではなく、治水事業でも成功を治めています。こちらで活躍したのは西門豹なる人物です

 彼が県令として鄴へ赴任した頃、洪水を治めるためと称して川の神に美しい娘を生贄に捧げる儀式が行われていました。

 同じコミュニティに属する若者を犠牲に捧げようというのですから、鄴周辺がかなりの洪水被害に見舞われていたことは間違いありませんし、犠牲者も己の死が皆のためになると信じて死出の旅に出たことでしょう。一方で、儀式は肥大化し、巫女やら役人やらは儀式を行うためと称して人々から多くの金銭を集め、利を貪っていました。

 西門豹は儀式に参加して娘の顔を見るや、「この娘は器量が悪いから川の神に捧げる訳にはいかない。数日後に改めて別の娘を送るので、巫女は川の神にその旨を伝えて来るが良い」と言い放ち、巫女を川に放り込みます。当然、巫女は帰ってきません。西門豹はとぼけて「川の神が歓待して帰ってこられないのかもしれないから呼んで参れ」だとか「巫女の弟子が女ばかりで話が通じないのかもしれない」などと適当な言い訳を口にしては、巫女の弟子も役人たちも尽く川に叩き込みます。

 徐々に位の低い者に順番が回ってくるので、全員蒼白となります。そこで西門豹は他の者を許しました。こうして悪習は絶えたのです。西門豹は灌漑路を作って川を12に分け、洪水を治めたそうです。

 西門豹の事跡は史記の滑稽列伝に収められていますので、面白いと思われた方はぜひ読んでみてください。

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2018年05月14日

春秋戦国 魏の興隆3 兵法家の呉起、魯で将軍となるが、失脚して魏を頼る

 文侯に仕えた中でもとりわけ有名なのが、兵法書『呉子』を著した呉起でしょう。

 呉起は衛出身で、孔子の弟子の曾子(孔子の孫の子思が曾子に学び、子思が孟子に教えたため、孔子と孟子を繋ぐキーパーソンとなりました)の門下に学びます。その最中に、母が亡くなります。

 常識はずれの厚葬を唱える儒家のことですから、呉起は当然、母の葬儀に参加することが求められました。ところが、呉起はかつてうだつの上がらぬ浪人時代に家財を使い果たし、それを莫迦にした者を30人以上も殺害していたこともあり、故郷には帰れぬ身の上でした。曾子は呉起を破門します。

 呉起は魯の元公に出仕して将軍に任じられました。その矢先、斉が魯に軍を向けます。当然、呉起の出番ですが、彼が斉人の妻を娶っていたことから、呉起に対する疑いが囁かれます。呉起は妻を殺すことで疑いを晴らすと、魯軍を率いて斉軍を打ち破りました。

 出世のためなら妻を殺すことも辞さない姿にいささか鼻白むのは、何も現代の我々だけではありませんでした。先の楽羊同様、親族に対しても冷酷に振る舞うことができる者が、果たして忠義の士であり続けるでしょうか?

 結局、呉起は魯で居場所を失い、有能な者を集めていた魏の文侯を頼ったのです。

 文侯は家臣の李克に、呉起を用いるべきかどうか尋ねます。李克が「呉起は貪欲で好色ですが、兵法に関してはかの司馬穰苴すら上回ります」と答えたことが決め手となり、文公は呉起を召し抱えることになりました。

 呉起は秦を撃って5城を落とすという快挙を成し遂げ、西河の太守となって秦、韓に備えました。

 なぜ、呉起はこれほども戦が上手かったのでしょうか。それは、呉起が厳しく規律を守らせるのと同時に、親身になって兵士のために尽くしたからです。

 行軍中は兵士と同じものを着、同じものを食べ、同じところに寝ました。傷口が膿んだ兵士がいると、自らの口でその膿を吸い取ったというのです。


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2018年05月15日

春秋戦国 魏の興隆4 兵士の膿を吸い取る将軍 不敗の名将、呉起の人心掌握術

 ある時、呉起が兵士の膿を吸い出してやると、兵士の母が嘆きました。周囲の者が、「将軍がそれほどまでのことをしてくれたというのに、どうして泣くのか?」と尋ねると、「かつてあの子の父親も、同じように将軍に膿を吸って頂き、感激して戦いが始まると真っ先に敵陣に斬り込んで討ち死にしました。あの子も同じようになってしまうだろうと嘆いているのです」と答えたそうです。

 呉起が兵士を厚く遇するのは、兵士にやる気を出させるパフォーマンスの部分もあったかも知れません。そうだとしても、これ程までに尽くしてくれる上官に信を置き、期待に応えようとするのも人の当たり前の行動なのでしょう。

 西河の太守となってからも、その活躍は留まることを知りません。『孫子・呉子』は異常なまでの強さをこう記します。

果たして、呉起は西河の地を守って奮戦した。主な会戦76回、そのうち64戦は完勝し、あとはすべて引きわけ、つまりまったく無敗であった(但し、漢数字は引用者にてアラビア数字に置き換えた)

 呉起の出仕について文侯と会話を交わした李克も、また一角の人物です。西門豹とともに孔子の弟子の子夏に学びますが、文侯に仕えてからは法を整え、成文法を制定しています。穀物を安い時に買い入れ、高い時に放出することで価格調整を行ってもいます。

 どう見ても、李克は法家に属する振る舞いをしていますね。曾子の弟子の呉起も法家としてのスタイルを持っていましたので、儒家の人物がしっかり国を運用しようとすると法家になるのは面白く感じられます。李克の統治スタイルこそが、後に公孫鞅に引き継がれることになります。

 文侯は李克を信任し、次の大臣を誰にするべきか諮問する程でした。李克は直接答えることはせず、「出仕せずに家に居る時に親しむ相手は誰か、家が豊かなら誰と交際するか、高位にある者ならどのような人物を推挙しているか、追い詰められた状況でも決して行わないことは何か、貧しくても決して受け取らないと決めているものはなにか、こうしたことを見れば人を見分けることができます」と応えました。文侯は何を言わんとしてるかを悟り、次の大臣を決めます。

孫子・呉子 (中国の思想)
孫子・呉子 (中国の思想)


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