2018年04月01日

春秋戦国 斉の後継者争い 暗愚な霊公が立つ 太子を廃して妾の子を立てようとするが、死後に覆される

 孝公が死ぬと、その息子を殺して弟の昭公が立ちます。昭公が死ぬとその息子を殺して弟の懿公が立ち、驕慢な懿公が殺されて更にその弟の恵公が立つ、という塩梅でした。

 恵公の次の君主が霊公です。

 「霊」が悪諡であることは既に述べましたね。ご多分に漏れず、斉の霊公も暗愚な人物でした。この霊公に仕えたのが、管仲と並んで名宰相と謳われる晏嬰です。諱が嬰、字が仲で、死後に平の謚が贈られていることから、晏平仲と称されることもあります。

 晏嬰は小柄な人物で、それ故のエピソードに事欠きません。晏嬰の御者は宰相の御者を務めることを誇り、得意そうでした。その姿を見た御者の妻は、宰相様は6尺(1尺は22.5m、6尺だと135cm)に満たない身体でへりくだっているのに対して、8尺(180cm)もあるあなたは下男をして満足している、そんな人とは離婚したいと言ったと史記列伝には書かれています。

 身体は小柄でも、その気概は偉大なものがありました。

 晏嬰は暗愚な霊公を相手にも憚ること無く諫言しています。その彼を重用し続けなければならなかったのも、晏嬰が有能だったからです。

 霊公はその諡号に相応しく、後継者問題で躓きます。霊公は女好きで、寝物語に弱いという大抵の男性が持っているのと同じ悪癖を持っていました。彼が悪いのは、権力を持っていたことです。ピロートークで口説かれるがままに、魯国の公女を母に持つ太子光を廃し、宋の公女の生んだ公子牙を立てようとします。牙の母の仲姫はそれを留めようとしたのですが、叔母の戎姫に請われて承諾したのでした。

 しかし、異国出身で国内に権力の拠り所の無い女性が何を言っても、重臣が心の中で反対していればのぞみは通りません。霊公の病が重くなって力を失うと、崔杼という重臣が元の太子光を再び立太子しました。

 崔杼は先代の主君恵公に仕えて重用されますが、恵公が死んで霊公が立つと、有力氏族の国氏と高氏に逐われ、衛に亡命していました。この頃には帰国し、再び力を握っていたのですね。

 霊公はそのまま死に、太子光が荘公として即位します。戎姫や公子牙は崔杼によって殺害されました。


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ラベル:春秋時代 中国
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春秋戦国 崔杼その君を弑す 荘公、崔杼の奥さんに手を出して殺害される

 荘公にとって、崔杼は大恩のある人物です。崔杼は主君に貸しがあるだけではなく、霊公存命中に太子を変えることのできるだけの実権を握った人物でもありました。こうした人物の扱いは、よくよく注意しなければならないはずです。それなのに、荘公は要らぬことをして破滅を招きます。

 崔杼は美貌で知られる棠公の未亡人を我が物にします。荘公は、その未亡人と密通してしまうのです。それを知った崔杼は激怒します。必ず、かの淫乱邪智の王を除かねばならぬと決意します。崔杼には自由に動かせる軍がありませんでした。彼は復讐の機会を虎視眈々と狙うことになります。

 その機会を与えたのは、宦官の賈挙です。賈挙はかつて笞刑に処されたことがあり、荘公を恨んでいました。2人は暗殺計画を練り上げます。

 前547年、崔杼は病気を装い、公式行事を欠席しました。見舞いに来た荘公が家に入ると、賈挙が扉を閉めてしまいます。崔杼の部下が武器を持って現れ、荘公は命乞いをしますが許されません。部下たちは、自分たちは主の命令に従い淫乱の賊を捕らえようとしているのであると、荘公の言うことなど聞きません。逃げようとした荘公でしたが、捕らえられて遂に殺害されました。

 荘公の最期に同情すべき点は全くありませんね。誰もが崔杼を畏れ、荘公の死を嘆くことすらしませんでした。唯一の例外は晏嬰です。晏嬰は「君が社稷のために死んだのなら、私も死ぬ。もし自分の欲のために死んだのであれば、誰が殉じようか」と言って、殉死は拒みましたが、哭泣の礼は果たしました。

 崔杼は荘公の異母弟杵臼を立て、景公とします。

 どう見ても、最大の権力者は景公ではなく崔杼ですね。こうした中、斉の史官は「崔杼がその主君を弑した」と、主殺しを明記します。崔杼はこの史官を殺しました。しかし、その弟が再び「崔杼、その君を弑す」と書きます。弟も崔杼に殺害されました。


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ラベル:春秋時代 中国
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月02日

春秋戦国 名将田穰苴 斉で力を得つつ有った田一族の名将、田穰苴の登場 軍中の時間管理は日時計で

 驚かされるのは、別の弟が「崔杼が主君を弑した」と書いたことです。それだけ記録に残すことが重要だとされていたのですね。崔杼も遂に諦め、崔杼弑君の史実は後世まで語り継がれることになりました。どこかの、ほいほいと記録を廃棄してしまうお役人様方にお聞かせしたい逸話です。

 斉の実権を握った崔杼も、翌前546年にはお家騒動に政敵が介入し、自殺に追い込まれています。一度は葬られた崔杼でしたが、後には死体を市場に晒されました。

 さて、景公は先代、先々代の愚かさから学んで名君でした、と書くことができれば良かったのですが、残念なことに景公も愚かな主君でした。ただ晏嬰の補佐があったために失敗せずに済んでいたようなものです。

 晋が斉の2つの城を攻撃して斉が敗北すると、燕もまた斉に攻め込んで黄河南岸の土地を奪う、という事件が起こった際には田穰苴を推薦しています。

 景公は田穰苴に軍を任せることにしますが、田穰苴はいきなり身分の低い私を抜擢されても士卒は納得しないでしょうから、身分の高い方を目付役に付けてくださいと願います。景公は承知して、荘賈という人物を目付けに任じました。

 翌日、荘賈は田穰苴と軍営で落ち合う約束をしていましたが、壮行会だといって押しかける親族友人らとの用事を優先させ、待ち合わせに遅れてしまいます。その際、田穰苴は日時計と水時計で時間を測ったそうです。

 ちなみに、中国の日時計は少々変わっていて、棒を立てて落ちた陰が時間を指すのではなく、日時計の中央に立てた棒に陰が当たるように駒を動かし、その駒がある場所で時間を読んでいたですとか、水時計は西洋と異なり自動で経時用の水を足す機構が無かったと『中国古代の科学』では紹介されています。

 いずれにせよ、時の流れを測ることに中国人も苦労しながら、実用に耐える仕組みを作り上げていたことが分かります。

中国古代の科学 (講談社学術文庫) -
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2018年04月03日

春秋戦国 名将田穰苴2 遅れてやってきた重臣荘賈を軍律に基づいて処刑して引き締め、敵を打ち払う

 さて、田穰苴は軍法官に、日限遅れの罪は何かと問います。答えは、打ち首でした。なにも古代中国だけが厳しいわけではありません。ローマ軍でも、歩哨が居眠りすれば死刑でした。

 荘賈は慌てて景公へ救いを求める使者を送りますが、使者の戻る前に荘賈の首は落とされてしまいました。景公の使者がやってきたのはその後のことです。彼らは慌て急ききって軍営中を田穰苴のもとへやってきます。田穰苴は、「将たるもの、軍中にあっては主君の命令すら聞かないことがある」と嘯き、更に「軍中で駆けてはならぬとあるが、いま使者が駆けてきたのはどのような罪か?」と軍法官に問います。答えは今回もまたしても打ち首でした。

 流石に君命を帯びた使者を処刑することはできません。代わりに従者の首を切り、ウマも添え木も切り捨て、使者にはその模様を景公に報告させました。

 一罰百戒、兵士たちは震え上がります。軍法を守らせるためのパフォーマンスであって、司馬穰苴は最初から荘賈を斬って兵士に規律を守らせようとしたに違いないと思われます。

 田穰苴はただ厳しいだけではありません。行軍の際は井戸掘りや竈づくりも自ら見て回り、兵士と同じものを食べ、同じものを身に着けました。兵士たちは誰もが田穰苴のために戦うことを願い、斉の士気は大いに上がります。晋と燕はその様子を知って撤退に移りますが、斉軍はこれを追撃して大いに打ち破りました。

 景公は田穰苴の凱旋を自ら迎え、大司馬に任じています。そのことから、彼は司馬穰苴とも呼ばれ、司馬遷はその列伝の4番めに彼の伝を据え、功績を讃えています。兵法書『司馬法』は、この司馬穰苴の兵法をまとめたものとのことです。

 この司馬穰苴や晏嬰と同時代に活躍し、同じく名宰相と讃えられた人物に、鄭の子産がいます。鄭は春秋初期は強国だったそうですが、子産が宰相となったころにはすっかり弱体化していました。というのも、晋と楚という強国に挟まれ、領土が削られる一方だったためです。


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ラベル:春秋時代 中国
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2018年04月05日

春秋戦国 孔子1 魯に生まれた孔丘、礼の専門家を自称して弟子を集める 

 3歳で父を、17歳で母を失ったそうなので、身寄りのない若者には厳しい状況だったことでしょう。そんな中でも背はすくすくと伸び、9尺6寸(216cm!)にもなって長人と呼ばれたとのことです。なにやらバロム・1みたいな渾名ですが、恐らくは偉人になった後に付け加わったものでしょう。

 身分が低かったこともあり、小役人にはなったものの、出世などとても覚束ない状態でした。

 そこで礼学の祖を自称して名を上げようとします。自称というは、孔丘がきちんとした師について学んだことがないためです。考えても見てください。殷周革命が前1023年頃で、孔丘が生まれたのが前551年ですから、約450年以上も前の話です。その専門家を名乗りながら教育を受けたことがないというのは、現代に直せば室町時代末期の専門家を名乗りながらまともな教育を受けたことがないというようなものです。

 彼の化けの皮は、周公旦を祀る太廟に入った際、そこの道具が何か分からずに質問攻めにすることで見事に剥がれ落ちるのではありますが、孔子はけろりと「相手に聞くの礼だ」と、相当に苦しい言い訳をしています。これこそが正規の教育を受けていない弊害です。

 孔丘の自称する専門家というものがおよそ事実とは見做し難いことがお分かりいただけるでしょう。また、専門家になるためには専門知識を系統立てて教わることの大切さも分かるかと思います。

 それでも、素人でもそれっぽく話していれば騙される者は続出したようで、それなりに弟子を集めます。

 前517年、魯の昭公は、実権を握る重臣、季孫意如を攻めます。彼がどれだけ力を持っていたかというと、昭公の舞人が2人だったのに対して季孫意如は64人も抱えていたということから見て取れるでしょう。

 攻撃のきっかけとなったのは、闘鶏です。季孫意如は他の有力者と闘鶏をきっかけに争い、召公の攻撃を招いたのです。


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