2018年03月01日

古代中国 周滅亡3 リアルオオカミ少年と化した幽王、何度も危機を告げる狼煙を上げて信用を失う

 寵姫の笑い顔にすっかり参ってしまった幽王は、何度も狼煙を上げては諸侯を集めますが、諸侯の側はたまったものではありません。やがて、狼煙を上げても誰もやってこなくなりました。当然の帰結ですね。

 今なら幽王を攻めても誰も助けには来ないと踏んだ妻の一族の申氏は犬戎と手を結んで反乱を起こします。危急を告げる狼煙が上がりますが、諸侯は王がまた道楽に狼煙を上げたとしか思わず、誰も助けに来ませんでした。

 現実版のオオカミ少年ですね。少年が愚かでも、せいぜい数人と家畜数匹が命を落とす程度でしょうが、王が愚かだと国が滅びます。

 首都鍋京は陥落し、幽王は息子の伯服と共に殺されました。前772年のことです。

 国を傾けたということで褒姒や末喜が傾国の美女と呼ばれることもあります。しかし、それはなんとも失敬な話で、女が直接権力を握って国を傾けたわけではありません。女に現を抜かして対峙しなければならない現実に目を背ける愚かな男が悪いわけです。私たちは美女を恐れるのではなく、愚か者をこそ正しく恐れるべきでしょう。

 これより先、コヤスガイに加え、貝を模した銅貨(銅貝)が一部で使われるようになっていましたが、青州の滅亡と共に使われなくなります。殷周革命の際にも技術力の低下が見られましたね。西周から東周への変化においても、同じことが見られます。経済的なダメージも大きかったことが分かるでしょう。

 王が不在となった周で、最初に力を握ったのは周王家でも重きをなしていた虢公です。虢公は有力氏族ではありましたが、一枚岩の勢力ではないという弱点を抱えていました。分家筋に当たる西虢は幽王の遺児、王子余を携王として即位させて鍋京に政権を立てます。

 面白くないのは本家筋に当たる東虢公や、先の反乱を主導した申氏です。彼らは同じく幽王の遺児宜臼を洛邑(後の洛陽)で王に擁立し、平王としました。携王即位の2年後に当たる、前770年のことです。

 こうして国は東西に分かれ、兄弟が相争うことになりました。そのうち、有利だったのは東です。平王側には東虢公に加え、晋の文侯(ややこしいのですが、春秋五覇に数えられる晋の文公とは別の人物です)ら有力な諸侯が味方についたためです。前759年、平王側は大挙して携王を襲いました。携王は自分を擁立した貴族からも裏切られ、最期は晋の文侯に殺害されて人生の幕を下ろしました。


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2018年03月02日

古代中国 周滅亡4 西周の崩壊で技術が他国に流出、中国文明の基礎となる 伝国の宝物、九鼎

 この周王朝の混乱を受け、各国では周の権威を軽んじるようになっていったことが文字史料から読み取ることができるそうです。そして、おそらくはこのときに知識人や技術者が流出、他国でも文字が多用されるようになっていきます。

 周の本拠地が西方の鍋京から東方の洛陽に移ったことを、周の東遷と呼んでいます。東遷以降を東周時代と呼び、それ以前を西周時代と呼んで区分しています。

 もっとも、東周時代、周王家は続きますが、権威は失われています。周の指示には従わず、ただ独立して他の有力諸侯から攻撃されることを避けようとしているに過ぎなくなるのです。後の前403年、晋を分割した韓、魏、趙が相次いで王を名乗ることで周との決別を決定的なものとし、戦国時代の幕を開けることになるのです。

 少々先走りすぎました。周の東遷まで話を戻しましょう。

 東遷の際、周王朝が伝えてきた宝物、9つの鼎も移されたようです。

 王の鼎が9に定められたのは周代です。9は究極の究に通じます。「多数」を「全て」に結びつける数なのです。国を9の州に分けたことも、そもそも9であることが前提で、河川や山脈といった自然のラインに従ったらたまたま9の領域に分かれた、なんていう話ではありません。 だからこそ、「九州」という言葉には「全土」の意味がありました。九州に対応し、全土を象徴する9つの鼎が宝物とされました。

 ちなみに、王は9、諸侯が7、卿大夫が5、士は3か1と、位によって持つ鼎の数が違いました。

 9鼎が全土を象徴する周の宝だったことが、後に「鼎の軽重を問う」の諺を生んでいます。鼎の権威は王権の正当性を伝える道具にまでなっていき、秦が周を滅ぼした際には9つの鼎を奪いました。

 国宝こそ無事に遷すことができた周でしたが、凋落は覆い難いものがありました。史記は、平王の時代に諸侯の勢力が増して大国が小国を併呑し、各地で政治が行われるようになったとしています。

 斉、楚、秦、晋が強国として名前を挙げられています。燕が入れば戦国の七雄が揃うことになりますね(晋が韓魏趙の3国に別れるため)。

 一般に、前770年の周の東遷から、前403年における晋の分裂までを、春秋時代を呼び習わします。このブログでも、以後を春秋戦国としてまとめて見ることにしましょう。


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2018年03月03日

春秋戦国 春秋時代とは? 魯の年代記『春秋』と、それが絶対に正しいとした解釈学

 春秋時代の名前の元になったのは、周公旦が封じられた魯の年代記である『春秋』からです。陰公元年(前722年)から哀公14年(前481年)まで、12代約240年に及びものです。

 孔子が生まれたのはこの魯のため、孔子が書いたとされることもあるのですが、実際には複数の史官が書いたものです。ところが、孔子が書いたとされたこと、その孔子が神に等しい扱いを受けるようになったことから、後世からは怪しい扱いを受けるようになります。

 複数人が異なる時代に書いたものですから、当然のこととして戦争や有力者の死、名家の没落や天災といった出来事に対し、使う言葉や表現が異なることが生じます。ところが、孔子の名声はあるがままを受け入れることを許しませんでした。僅かな表現の違いは、孔子が熟慮を重ねて生み出したもので、非難やら賞賛やらといった本心が隠されているとされたのです。

 文字の獄を生み出した国なので、たしかに強い表現で批判したくともできずに一見穏やかな表現の中に批判を潜り込ませたこともゼロではないでしょう。あるいは、嫌いな人物故に非難の色が濃い文章が書かれたこともあったでしょう。しかし、あらゆる文章が孔子の微妙な心象の差を現しているとなると、到底受け入れることはできません。

 しかし、そう信じた人々も居て、怪しげな解釈を大量に生み出してきました。それを春秋の筆法だとか、微言大義と呼んでいます。陰謀論的に春秋を読むという、ややもすれば不毛な行為の結晶とも言える解説書も生まれています。左丘明の春秋左氏伝、公羊高の春秋公羊伝、 穀梁赤の春秋穀梁伝が有名です。

 こうした動きに対し、『教科書では読めない中国史―中国がよくわかる50の話 - 』は、「『春秋』という書の、歴史記録から、哲学、政治イデオロギーの書物への転身であった」 と喝破しています。特に左氏伝では左伝とも呼ばれ、三国時代の豪傑の1人である関羽が好んで読んだように、後世まで影響を与えました。

 書物の春秋とはそのようなものだとして、では春秋時代とはどのような時代だったのでしょうか。

教科書では読めない中国史―中国がよくわかる50の話 -
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2018年03月04日

春秋戦国 周の勢力が東へ去ったことで、西では戎と同じ民族である秦が勃興する 嬴姓の始まりについての神話

 少なからぬ本で、春秋時代について最初に書かれるのは斉の桓公です。周の東遷から斉の桓公まで、史記によれば平王が51年で、桓王が23年で、荘王が15年で死に、その次の釐(き)王3年に桓公が覇者となったとあります。東遷から90年ほども経つのに、どうしていきなり斉の桓公なのかというと、目玉になる記事がないからです。

 実際、史記を呼んでも紹介したいエピソードがあまり無いのですが、ここでは権力の空白地となった鍋京に西方から秦が食指を伸ばし、前754年には周との国境を定めていることを紹介しておきましょう。

 秦は殷の流れとも周の流れとも異なる、西戎そのものか、または極めて密接な関係にある人々の集団です。甘粛省南部の馬家源遺跡には見事な馬車と共に、切断されたウシの首が埋められているのが発見されていますが、これは西戎の風習です。では西戎の人の墓なのかと言うと、秦で見られる数センチ大の金の動物が発見されていることから、そうも言えないのです。秦=西戎と考えるのが筋なのです。

 彼らは蔑視された異民族という出自を隠すためか、はたまた周側の意向があったためか、神話に結び付けられます。すなわち、禹の治水事業に功績を上げた伯益が「嬴」姓を授けられ、後の秦王家の祖先となったというのです。

 西方だけではなく、東方にも異民族は少なくありませんでした。殷系、周系の国々が「諸夏」、「諸華」という括りで同盟を結び、異民族と戦うところが見られます。そのような合従連衡の中で、士大夫層に一体感が醸成されていきます。

 東方には殷代から国名の見える斉が、北方には召公奭の燕が、そして中原に西周討伐に功を為した晋が封じられていましたね。南方にはもともと殷や周の権威の外にあった都市国家群がある状態です。

 各国は、それぞれの国で王位を兄弟継承にしたり親子継承にしたりしながら力を付けていきました。当然、それには弱い国が滅ぼされるという、弱肉強食を伴っていたことは既に書いた通りです。力を付けた国は都市国家から領土国家へと転換していきます。ただ、まだどの国も周の主導権という幻を捨て去ることはしませんでした。それは、他国が周を奉じて介入してきた時に、防げないかもしれないから、です。曹操が無力になった献帝を支え続けたのも同じ理由ですね。献帝擁立が曹操に有利に働いたことを見れば、この段階で敢えて周と袂を分かつ必要は感じられません。


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2018年03月05日

春秋戦国 斉の桓公1 暴君・襄公の即位 魯の桓公殺害の顛末と、兄弟の公子糾と公子小白の国外出奔

 国力を上げた勢力は、膨張する経済に押されてか、自国内で通貨を流通させる様になっていきます。周や晋などで布銭が、斉などで刀銭が使われるようになります。面白いのは、文化的にも民族的にも周とは出自の異なる楚で、コヤスガイを象った銅貝貨が使われたことです。『貨幣の中国古代史 (朝日選書) - 』は、「もともと南海方面からの子安貝の流入ルート上にあったので、その伝統は濃厚に残存していたものとみられ、そのため、むしろ貝貨使用が活発であった西周関中地域の伝統が継続することになったのであろう」と指摘しています。

 こうした中でまず目立った強大化を遂げたのが、東方の斉です。

 名君が続いて強国になったわけではありません。むしろ、主君にするのは御免こうむるような人物が、その厚かましさによって国力を上げた感じがします。

 桓公が即位する前、斉はお家騒動に揺れています。桓公の父にあたる釐公からから話を始めましょう。

 釐公は甥の公孫無知を可愛がり、太子である諸児(しょげい)と同格の待遇を与えました。その釐公が死んで諸児が襄公として即位すると、彼にとって従兄弟の公孫無知は重要な存在ではないどころか、自分と同格の扱いを受けていたライバルですから、その地位を下げます。

 面白くないのは公孫無知です。彼は反乱の機会を狙っていました。

 襄公というのは少々タガの外れた人物だったようです。彼には妹がいて、魯の桓公に嫁いでいました。襄公と妹は、妹が国を出る前から男女の関係にあったと伝えられます。チェーザレ・ボルジアとその妹ルクレツィア・ボルジアのようなものでしょうか。

 少々異常なのは、妹が嫁いだ後にも機会があれば関係を続けたことでしょう。魯の桓公が妻を連れて斉を訪ねた際、襄公と妹は関係を持ちました。それを知った魯の桓公が妻を怒ると、襄公は酒宴の席で桓公を殺させてしまいました。

 こうした行動に見られるように、襄公は少々常軌を逸したところがありました。不興を買おうものなら親族ですら何をされるか分かったものではありません。襄公のすぐ下の弟の公子糾は母の生国である魯へ、異母弟の公子小白は莒へ出奔しました。

貨幣の中国古代史 (朝日選書) -
貨幣の中国古代史 (朝日選書) -


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