2018年02月01日

古代中国 夏王朝4 巨大な宮殿は祭祀のためのもの? 清まで3000年以上継続する宮殿の基本形の完成

 『中国文明農業と礼制の考古学』はその宮殿の規模を以下のように記しています。

 二里頭遺跡の中心には、街路で整然と区画された宮殿区があった。発掘された一号宮殿は、回廊で囲まれた中に王が臨朝する巨大な正殿と多数の臣下を収容できる中庭からなり、西周金文や儒教経典にみえる宮殿、ひいては漢代から明清代にいたる宮殿と基本的に同じ構造をもっている。それは「王者のまつり」をおこない、王が臣下に謁見し、君臣関係を目に見える形で表彰する、宮廷儀礼の場であった。


 一号宮殿の基壇版築はおよそ二万立方メートル、かりに一人が一日に〇.一立方メートルの版築を仕上げると、のべ二〇万人、一日に一〇〇〇人の労働者を動員しても、二〇〇日を要する大工事である。土を突き固めるだけでなく、ほかの場所から土を運んでくる作業などを考えると、全体に費やされた労力には想像を絶するものがある。


 上掲書は「礼」の本字「禮」は「醴(酒)」を用いた儀式のこと。宮廷儀礼には必ずといってよいほど飲酒儀礼が伴っており、それが成立したのは二里頭文化であったとして、宮殿は宗教儀礼ではなく、宮廷儀礼の場だったのではないかと推測しています。

 宮殿では酒が供され、身分を明らかにし、固定する儀式が行われたというのです。こうした宮殿の特徴から、恐らく二里頭文化で最初の王が生まれただろうと言われます。そして、礼は漢代に1つの完成を見、宮殿の基本構造と共に清にまで引き継がれるのです。

 中国の酒は穀物を醸造したものです。雑菌の混入を防ぐことは困難で、傷みやすいものでした。そのため、酒の仕込みは夏の暑さを避ける必要がありました。秋に酒が仕込まれるのは、収穫の直後で材料があるからという理由だけではありません。

 酒は果物で香り付けされているものもありました。モモ、ウメ、エビヅル、ハーブ等で香りを付け、温めて飲んでいました。酒を温めるのに、最初は土器でしたが、やがて熱伝導率の高い銅が使われるようになっています。酒器に青銅ではなく銅が使われたのは、熱伝導率が高いからです。

中国文明農業と礼制の考古学 (学術選書 36 シリーズ:諸文明の起源 6) -
中国文明農業と礼制の考古学 (学術選書 36 シリーズ:諸文明の起源 6) -


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
ラベル:夏王朝 中国
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 古代中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月02日

古代中国 夏王朝5 酒はぬるめの燗が良い? 熱して飲まれた古代の酒 肉料理と言えば焼肉だった夏王朝

 加熱の理由を『中国文明農業と礼制の考古学』は、当時の酒は甘みがなくて酸味が強く、とくに時間がたつにつれて醸造や貯蔵の過程で混入した雑菌が繁殖して味が悪くなるため、「火入れ」によって滅菌したり、燗をつけて口当たりをよくしたからであろう。殷周時代に鬱金草などで香りをつけた酒が祭祀儀礼で重んじられたのも、酒そのものの風味が芳しくなかったからではなかろうかと述べています。

 上掲書によると、夏では焼肉が好まれたそうです。

灰や焦土のほか、竈の周囲には多数の焼け焦げた獣骨が散乱し、ここで焼肉の料理を盛大につくっていたことがわかる。(略)焼け焦げた獣骨が出土するのは二里頭文化までの特徴で、二里岡文化ではそれが急速に消失する。つまり、夏人は焼肉料理を好んでいたのにたいして、殷人はむしろ煮た肉料理を好んだらしい。周の時代になっても、祭祀や食事に用いるのは基本的に生肉、乾し肉、鼎で煮た肉であり、焼肉はほとんど用いられていない。中国の食文化において、焼肉料理が夏王朝の滅亡とともに久しく中断することになったのである。


 骨の多くはウシのものなので、殷の高位高官たちは牛焼肉に舌鼓を打っていたことになりますね。

 当時はまだ高火力が実現不可能でしたから、高温に耐える調理器具もありませんでした。油も希少だったこともあり、調理と言えば煮る、焼く、乾かすことが中心でした。なので、肉料理は焼くか煮るかのほぼ2択だったのでしょう。そのうち、殷は焼くことを好み、周は煮ることを好んだようです。なお、穀物は蒸すのが中心でした。

 大都市を建設し、金属利用もすれば遠方との貿易も行っていた二里頭文化ですが、その支配地域は黄河流域の、二里頭遺跡を中心に半径100キロ程度の狭い領域に留まったものと見られます。

 夏王朝が大帝国ではなかった背景に、どうやら夏が武力で近傍の都市を征服して勢力を伸ばそうとしなかったことがあるようです。武器や埋葬状態から、積極的な外征で領土を広げた形跡が見られないというのです。

中国文明農業と礼制の考古学 (学術選書 36 シリーズ:諸文明の起源 6) -
中国文明農業と礼制の考古学 (学術選書 36 シリーズ:諸文明の起源 6) -


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
ラベル:夏王朝 中国
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 古代中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月03日

古代中国 夏王朝6 二里頭文化に見られる破壊の跡 二里頭遺跡から僅か6kmの地点で発見された軍事拠点

 勿論、それは伝説の夏王朝が豊かで平和な時代であったことを意味しません。

 遺体は穴の中に北か南枕で埋められましたが、その中に不自然な体勢で埋められた死体や一部の骨が欠損した状態の骨から、戦死者と見られる遺骨が発見されています。それらは二里頭後期で急増しているのです。二里頭末期に何が起こったのでしょうか。

 答えは、二里頭遺跡内部に見られる破壊の跡に見ることができます。そして二里頭を滅ぼした者の正体は、そこからわずか6kmほど離れた二里岡で発見されました。

 二里頭が夏王朝なのですから、二里岡文化は殷ということになります。

 夏から殷への移行についての神話は既に紹介しましたね。桀王が末喜という女性に溺れて悪政を敷き、殷の湯王が賢臣伊尹の補佐を受けて桀を滅ぼしたというお話でした。同工異曲のお話が殷の紂王と周の幽王でも繰り返されたことも紹介したとおりです。3つの王朝の滅亡または衰退の物語はあまりに似ていて全てが事実であるとは考えられないこと、夏王朝に触れた同時代資料は存在しないとも書きましたね。桀王の物語は神話として措いておくとしましょう。

 ただ、湯王を補佐した伊尹は、殷時代の記録に名前が出てきます。そのことから、料理人だったとか、一度は湯王の下を去って桀王に仕えたものの再び湯王に仕えたといったことまで事実であると考える必要はありません。

 では、歴史的事実としての夏殷革命とはいつ頃、どのように起こったものだったのでしょうか。

 戦国時代に成立した竹書紀年からは前1500年頃と読み取れるそうです。また遺跡からの出土品を放射性炭素年代測定法にかけ、更に樹林更生(複数の樹木の年輪から木材が伐採された年を計算する方法)を行うと、前1625±130年頃と、ほぼ一致します。前1500〜1600年ごろと見ておけばそう外れはしない感じですね。

 夏王朝の首都だったと見られる二里頭遺跡からは破壊の跡が見つかっています。これまで二里岡文化と書いてきましたが、そのうち偃師城遺跡と二里頭遺跡は僅か6kmの距離にあります。偃師城遺跡は大きな都市ですが、その下層にはもっと小さな都市遺跡が眠っていました。この下層の偃師城築城とほぼ同じ頃に二里頭の王宮が破壊されているのです。偃師城は殷が夏を滅ぼすために築いた最前線の軍事拠点だったのです。殷は夏を滅ぼした後、偃師城の都市を拡張したのが上層の遺跡と見られています。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 古代中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月04日

古代中国 殷王朝1 甲骨文の発見と殷王朝実在の確認

 実はこの殷も、長く伝説上の存在でした。殷のものとはっきり分かっている遺物が存在しなかったためです。今では周のものとされてきた遺物の中に殷のものが混ざっていたことがはっきりしていますが、それも新たに遺物が発見され研究が進んだからこそ分かるようになったことです。

 殷の実在がはっきりしたのは、ある偶然からでした。

 清の国子監祭酒(教育を司る役所の長官)の王懿栄が、マラリア治療のために竜骨(勿論、竜の骨ではなく、遺跡から出てきた骨を竜の骨だと主張して売っていたというものです)を買い求めたところ、骨に刻まれた文字を見つけました。それが甲骨文の発見です。

 たまたま古代文字を判別できる者が甲骨文の刻まれた竜骨を購入したとなると、出来過ぎた話のようにも思われます。しかし、これは甲骨文字の刻まれた竜骨は幾つも売りに出されていたが、他の者にはそれが文字だと判別できなかった、あるいは文字だと気づいても重要性は分からなかったという話なのでしょう。幸い、王懿栄の食客に青銅器に刻まれた文字(金文)に詳しい劉鉄雲がいました。

 彼らは甲骨文の収集を始めます。なお、後に義和団の乱後の列強進出を憂いた王懿栄は自害してしまいます。劉鉄雲が王懿栄から引き継いだものも含めた甲骨文を拓本として出版したことで、甲骨文研究が行われるようになります。

 甲骨文とは亀甲獣骨文字の略で、カメの甲羅や動物の骨を焼いて吉凶を占った後、その甲羅や骨に占いの内容や的中したかどうかを刻んだ文章のことです。骨を焼いて吉凶を占うこと自体は甲骨文が生まれるよりも前から行われていました。現在では卜骨は黄河上流域でヒツジの伝播に前後して現れたとされています。

 骨は近場から得られましたが、カメの甲羅は遠方から運ばれました。遥か遠くから、それなりの労力をかけて甲羅を運んだのは、背が天円地方の形で宇宙に見立てていたためとの主張もあるそうです。但し、焼かれているのはもっぱら腹側であることから、亞の形をしているからではないかと『甲骨文の話』は指摘しています。殷墟からは他にも亞を象った遺物が出ています。

甲骨文の話 (あじあブックス) -
甲骨文の話 (あじあブックス) -


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
ラベル:中国 殷王朝
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 古代中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月05日

古代中国 殷王朝2 甲骨文が刻まれたのは貴重なウシの肩甲骨 3000字程が知られ、1000字ほどが解読されている

 これまでに10万点にも及ぶ甲骨文が発見されています。それらは偃師城跡ではなく、殷墟から見つかっています。近隣からは、焼灼した骨こそ出土していますが、甲骨文までは見つかっていないそうです。

 最も古い時期の遺物として発見される卜骨の多数はヒツジ、次いでブタです。やがて黄河中流域に広がり、ウシやブタが多用されるようになります。見つかるのはウシ、ブタ、ヒツジの順に変わります。殷代、ウシの価値が高まると、ほとんどがウシになります。王宮跡から見つかる骨史料の約6割がウシ、2割がブタ、1割がヒツジということです。ただし、一般市民の居住区ではブタが多いところもあるそうです。

 ウシは1回の妊娠で1頭の子しか生みません。そのため、ウシを消費することは力がある証明にもなります。殷が夏よりも広い地域を支配し、牧草地を確保できたことがウシの多用を可能としました。ウシ生産を支えるため、人民には牧草が租税に指定されています。

 甲骨文は殷の武丁(紂王の8代前の王)期に突如出現します。それ以前には、はっきり文字史料であると断言できるものは出土していません。ただし、文字か記号か判別はできないものについては夏成立以前の新石器時代からも発見されています。ただ、断片的な記号(一部は文章の可能性が指摘されていますが)を解読するのは至難の業でしょう。インダス文明の方がまだ発見された文字数なら多いのに、未だに解明されていないのですから。

 甲骨文は約3000字が知られており、そのうち1000字程が解明されています。勿論、3000字が瞬時に生まれたわけはありませんから、それ以前にも歴史があったことは間違いなく、基本が象形文字である中で形声文字が見られることは、文字の進化もあったことが分かります。

 木簡を象った文字も見つかっているそうなので、甲骨に刻む前は木簡が使われたと見られます。現時点では木簡が発掘されたことは無いそうですが、今後の出土を期待したいところです。もし木簡が見つかれば、文字の進化について少なからぬ事柄が解明されそうです。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
ラベル:殷王朝 中国
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 古代中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村