2017年11月01日

ローマ3 ユリアヌス3 密告者を追放し、ギリシア文化を愛した知的な皇帝

 彼がキリスト教の自然消滅を狙ったのが事実だとしても、直ちに英邁さに欠けているとは言えません。

 独裁者は自分の権力を保つため、スパイを重用して密告を奨励したり微罪に対しても処刑といった過酷な罰を与えたりするもの(北朝鮮を見て下さい)ですが、ユリアヌスは先帝が重用した密告者たちをお払い箱にし、罪に対しては寛大でした。

 ただ、密告者たちには厳しい対応をしています。コンスタンティウス2世派の重鎮は裁判にかけられ、権勢を振るったパウルスは火あぶりに処され、他の者にも死刑や追放刑が与えられました。

 ギリシア文明を愛したユリアヌスは、いかにもギリシア愛好家らしく奢侈を嫌い、華美な宮廷を軽蔑していたと伝えられます。服装に無頓着で、清潔さも重視しませんでした。ギリシアで質素な服装が取られたのは、ギリシアが経済的にはそれほど豊かではなかったこともあるのですが、そうしたマイナス要因は顧みられなかったようです。

 ユリアヌスがその生命を失うことになるのは、宿敵ササン朝ペルシアとの戦いです。

 この頃のササン朝ペルシアの王はシャプール2世です。彼はまだ胎児の頃に父を亡くしています。出生後、男児であったことから王位継承が決められ、16歳から親政を開始しています。『シルクロード全史』では、ササン朝ペルシアの興隆について、彼は卓越した政治と軍事の才能を持ち、その当地の下でササン朝ペルシアは最盛期を迎えたと絶賛しています。

 彼がローマ相手に戦いを始めたのは337年のことで、メソポタミアとアルメニアの回復を図ってのことです。また、ペルシアではゾロアスター教が国教化されてキリスト教が禁じられていました。コンスタンティヌス1世のキリスト教保護は、このペルシアとの対立を煽ることとなったのです。

 そして、ユリアヌスの遠征を招いたは358年のローマ攻撃でした。メソポタミア北部へ侵入、勝利を挙げたのです。

 362年、ユリアヌスはササン朝ペルシア対策のため、東方へ向かいアンティオキアに至ります。


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2017年11月02日

ローマ3 ユリアヌス4 ササン朝ペルシアへの遠征 陣頭指揮を取るユリアヌス、敵の槍に刺されて戦死

 363年、春を待って遠征へ向かいます。6万を越える、過去にないほどの大軍を率いてのことでした。案内人となったのはシャプール2世の弟ホルミズドです。ガリアの道長官サルスティウスは遠征を止めるように求める書簡を送っていますが、ユリアヌスは進撃を続けました。当初こそ優勢に戦いを進め、首都クテシフォン近くまで攻め込んだものの、アルメニアの離反や拙攻もあってクテシフォン攻略を諦めました。もっとも、ギボンは6万もの軍を抱えていながら、かつてローマが占領に成功したクテシフォン攻略を、戦う前から放棄したのは訳がわからないとしています。

 ササン朝ペルシア軍の援軍が迫ってきたこともあり、舟を焼いて撤退に移ります。しかし、その途中にティグリス河畔のマランガの戦いで敵の槍に当たり、戦死しました。ユリアヌスは暑さの余り鎧を脱いでいました。後背から敵襲の声に、無防備ながらもユリアヌスはいつも通りに陣頭指揮に立ち、敵を追い払うことには成功したのですが、退却際に敵兵が放った槍に貫かれたのです。それでも戦いを継続する意志を示したのですが、致命傷でした。享年32。その治世は僅か1年8ヶ月でした。

 死去の直前、「ガリラヤ人、お前の勝ちだ」と呟いたとの伝説があります。キリスト教を軽蔑していたユリアヌスはイエスのことをガリラヤ人と呼んでいました。彼が死ねば、再びキリスト教がローマを覆うことを予期していたのでしょうか。

 彼が長生きしていれば、あるいはヨーロッパの歴史は違う形で進んでいったかも知れません。

 なお、この戦いのもう一方の当事者であるシャプール2世はこれより先379年まで71年間の長きに渡りペルシアを統治しました。この長さは世界史上最長とのことです。

 ユリアヌスには子が居なかったので、軍は32歳でキリスト教徒のヨウィアヌスを推戴します。帰国のための和平交渉でペルシアにティグリス川以東を割譲することで和睦し、帰国の途に就いたヨウィアヌスでしたが、途中で急死します。在位わずか7ヶ月でした。

 新たに43歳のウァレンティニアヌス1世が即位します。無事にローマに入ると弟のウァレンスを副帝に指名、東方を任せます。ウァレンスは、「三六歳であったが、文武を問わず何らかの任務でその才幹を発揮したことはいまだかつてなく、その性格も世間に楽観的な期待を抱かせるようなものではなかった」という素晴らしい人物です。彼は単に兄に対する献身的な奉仕によって福帝。となったのでした。このウァレンスなる人物の愚行は後に見ることになります。


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2017年11月03日

ローマ3 ウァレンティニアヌス1 ウァレンティニアヌスとウァレンス兄弟、異民族と戦いローマ安定化を図る

 2人は感情のままに処刑を多用するという欠点もありましたが、酒や女に溺れることはなく、各州の州都に学校を作ったことに見られるように教育にも力を注ぎました。学校には写本を行う書記も配置され、多くの写本が並んだとのことです。現代の学生とは異なり、ローマの学生は享楽に過ごす時間は無かったそうです。生徒が怠惰や指示に従わない場合、教師には生徒を鞭打つ権利が与えられました。少数しか教育を受けられない社会では、そうやってでも知的エリートを再生産する必要があったと考えられたかもしれません。しかし、教育に効果があるのは罰を与えることではなく、褒めることなので、教師たちの行いは逆効果だったはずです。

 宗教面では、キリスト教に溺れるでもなく、異端に傾倒するでもなく、不偏不党を貫いたことをギボンは讃えています。キリスト教に限らず、全ての宗教は公認されました。

 この間、ユリアヌスの母方の親族プロコピウスが反乱を起こしてコンスタンティノープルを乗っ取り、皇帝を名乗る事件がおこります。ゴート族の支援を仰いでの行動でしたが、敗死します。

 366年、ウァレンスは、プロコピウスを支援したゴート族に攻撃を仕掛けます。戦闘は終始ローマが押し気味だったのですが、ササン朝ペルシアの蠢動が知らされたため、ローマに有利な和平条約を結んだことで満足するしかありませんでした。ゴート族のドナウ川渡河は禁じられ、ローマからの貢納金支払いもなくなりました。ゴート族には厳しいことに、交易所も2箇所に制限されました。

 ウァレンティニアヌス1世は西方でアレマンニ人と戦い、更にドナウ川流域で異民族を相手にします。サクソン人相手の戦いでは、侵入してきたサクソン軍を追い詰め、無事に撤退させる代わりにローマの軍務に就く若者の供出を命じています。

 ただ、広すぎる国境線全てを防衛することは困難でした。367年、ブリタニアでは、スコット人、ピクト人、サクソン人といった異民族の攻撃を受け、指揮官2名が戦死するという敗北を喫します。ブリテン島の被害は深刻で、ロンディニウムは陥落して属州北部は失われ、都市は破壊されたました。ウァレンティニアヌスは将軍テオドシウスを派遣します。テオドシウスは各地で勝利を重ねました。翌年にはロンディニウムを回復、異民族を追い散らして属州をウァレンティアとして再建しています。テオドシウスは騎兵長官に昇進しました。戦利品は一部を部下に分配し、残りは元の持ち主に返すという公平さでした。能力の高さと人望が、後に彼の子を皇帝の座に導くことになります。


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ラベル:ローマ
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2017年11月04日

ローマ3 ウァレンティニアヌス2 クァディ族との交渉中、頭に血の上った皇帝が急死

 375年、ウァレンティニアヌス1世がクァディ族との諍いの最中に急死します。

 これより先、ローマは防衛施設の敷設をクァディ族の勢力範囲内に築こうとして抗議を受けていました。イリュリクムの司令官エクィティウスは彼らの言に道理を認めて建設を中断しますが、功を焦るガリア道長官のマクシミヌスは皇帝に建設推進を訴え、クァディ族の王を宴席に呼び出して殺害してしまいます。

 クァディ族といえば、5賢帝の最後を飾るマルクス・アウレリウス・アントニヌスが苦しめられた相手でしたね。この時代には往年と比べて勢力が衰えてはいましたが、これほど卑劣な扱いを受けて黙っているような人々ではありません。クァディ族と同盟を結んでいるサルマティア人も援軍を送り、ローマに攻め寄せたのです。

 異民族軍はイリュリクムの道長官プロブスと軍司令官エクィティウスを斃して気炎を上げます。ブリタニアに派遣されたテオドシウスの同名の息子テオドシウスが異民族を撃退することに成功しました。

 ウァレンティニアヌス1世はこの戦後処理のためにクァディ族の代表者と会談を行う最中、憤激の余り急死したのです。軍は息子で副帝となっていた17歳の息子のグラティアヌスではなく、その弟でまだ4歳のウァレンティニアヌス2世を傀儡として即位させます。

 グラティアヌスは、弟にはミラノの宮廷での暮らしを勧め、自らはアルプス以北の異民族対策へ向かいます。ただ、幼帝ではとても国の舵取りなどできませんから、実際はグラティアヌスが皇帝として振る舞いました。

 宗教面では、父の各宗派に目配りした融和的な姿勢を改め、キリスト教化を推進しています。

 この時期にローマはゴート人を相手に信じがたい背信を行うのです。

 ゴート人は何度もローマに侵入してはいましたが、370年頃から後背から自分たちを脅かされ、難民としてローマに流入していました。その脅威の正体こそ、かのフン族です。

 ここでフン族について触れておきましょう。

 フン族は、疾風にように現れ、史上にその名を刻むアッティラがローマを恐怖のどん底に叩き落したものの、アッティラ死後には四散して歴史の表舞台から姿を消してしまったため、その詳細は分かっていません。


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ラベル:ローマ フン族
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2017年11月05日

ローマ3 フン族1 フン族は匈奴? 実証困難だが人気のあるこの説の背景

 ギボンは漢を脅かした匈奴こそがフン族であるとする説を採っています。

 北匈奴が中国北方で勢力を伸ばしてきた鮮卑から逃れる形で東トルキスタンを放棄し、西方へ向かったのは158年のことです。この北匈奴はキルギス平原に留まって周辺の遊牧諸族を支配し、一時は中央アジアに覇を称えていたといわれる(『匈奴―古代遊牧国家の興亡』)そうですが、彼ら自身が文字を持たなかったこと、中国から離れてしまったために中国の記録にもほとんど残らなくなってしまったことから、詳細を追うことができません。この頃、中国は中国で後漢末からの内戦に忙しく、遥か彼方の北匈奴を探ることまではできませんでした。

 ただ、350年ごろにペルシア北方のアラン国を滅ぼした記録があるそうです。そこから少し西進すればもうヨーロッパへ入ります。フン族の侵入が375年であることを考えれば、無理のある仮説ではないでしょう。

 考古学的には、江上波夫氏は、フンが勢力圏としたヴォルガ川流域からパンノニア平原にかけて漢の文物およびその影響下で製作された匈奴式器物が広く出土していることが、匈奴の西遷によって説明できることを証明した匈奴―古代遊牧国家の興亡』 とのことです。一方、言語学的アプローチは、中国史書に残されている匈奴の言葉がごく少数であること、トルコ語もモンゴル語もアルタイ語系に属するため決定的な証拠には成りえないことから、証拠としては弱いようです。

 『遊牧民から見た世界史』では、フン族と匈奴に関係があったかどうかは分からない、とした上でこう書いています。

(略)ただし、匈奴とフンという名称に近似性があることは否定できない。匈奴は、現代漢語では「シェンヌ」と発音されるが、おそれくかつてはフンに近い音だったとされる。
 そしてもうひとつ。ともかくも、北匈奴というそれなりの大集団が西走した波のなかから、四世紀後半の南ロシア草原にフンと名乗る集団が東から出現したのも否定しがたい。そしてその圧力のなかで、ゲルマン諸族がおもむろに移動をはじめ、ついにはローマ帝国を混乱・解体させ、あらたな時代へ歴史を大きく旋回させたこと――こうした一連の歴史の大状況もまた、たしかな事実である。


匈奴―古代遊牧国家の興亡 (東方選書) -
匈奴―古代遊牧国家の興亡 (東方選書) -

遊牧民から見た世界史 増補版 (日経ビジネス人文庫) -
遊牧民から見た世界史 増補版 (日経ビジネス人文庫) -

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