2016年11月01日

ローマ2 奴隷反乱4 反乱軍はアルプス手前まで行くが、南方の富を求めて再び南へ

 奴隷軍団がアルプスを越えるのに、もうアルプス以外に障害はありませんでした。しかし、彼らはアルプスを越えることはありませんでした。アルプスの峰を越えるには季節が遅すぎたからとも、勝利に溺れて豊かな南イタリアで略奪しながら生きることを選んだためとも言われます。彼らの内在的な思いは今となっては知る由もありません。分かっているのは、彼らがアルプスを前にしてUターンし、再び南イタリアへ戻ったということです。

もし彼らが自由を求めて北へ行き、アルプスを越えてローマの軛から自由になって反乱が終息したのであれば、彼らの行動は自由を求める崇高なものだったと言えるかもしれません。しかし、略奪のために南イタリアへ向かったことで、反乱に与えられる歴史的な意味合いは大きく異なることになります。

 南方に再び反乱軍の脅威を抱えることになったことで、ローマは対応に迫られます。しかし、連戦連勝のスパルタカスを相手にすることが分かりきっている法務官に敢えて就こうとする者は無く、選定は難航します。

 前71年、クラッススが法務官に選ばれます。討伐軍が編成されたのですが、指揮下の4軍団のうち2軍団が勝手な行動を取ってスパルタカスを攻撃し、敗北します。

 ここでクラッススは劇薬を用いて綱紀粛正を図ります。即ち、10分の1刑と呼ばれる刑で、くじ引きで10人に1人を選ぶと皆の前で殴り殺すといったものです。

 敵よりも怖いのは自分の上官である、という究極の脅しですね。私も部下に不満がないわけではないのですが、こんなことをしたいとはとても思えません。

 反乱軍は南下を続けて半島南端に至ります。しかし、それは自分たちを追い詰めることでもありました。

 クラッススは反乱軍を包囲陣で完全に囲みます。スパルタカスはローマ軍を攻撃するのですが、堅固な陣地に守られたローマ軍を攻撃するのは難航し、3度目の攻撃で遂に包囲を破ると、再び北へ進みます。



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2016年11月02日

ローマ2 奴隷反乱5 クラッススは反乱軍を殲滅し、捕虜6,000人を磔にする

 自由を求めておきながら、欲望に負けて南方に戻ったことをこの時ほど後悔したことはなかったでしょう。

 クラッススはスパルタカスを猛追します。遂に追いつかれたスパルタカスは、自分のウマを刺殺します。勝てばウマは手に入るし、負ければもう必要ない、と嘯いて。

 スパルタカスとローマ軍の最後の戦いが始まりました。両軍は正面から衝突します。しかし、勝敗は端から明らかだったことでしょう。がっぷり4つに組み合って、反乱軍が鍛え抜かれたローマ軍に勝つことはできませんでした。スパルタカスは戦死し、多くの反乱軍兵士も同じ道を歩みます。

 悲惨なのは捕虜となった6,000人の奴隷たちです。彼らは反乱を起こした者への刑罰である十字架刑に処されました。ローマでは罪状によって処刑方法がことなっており、十字架刑は反乱罪のみに適用される方法です。これは後にある人物を取り上げる際に重要になりますので、覚えておいて損はないと思います。

 アッピア街道沿いには6,000もの十字架がずらりと並び、見せしめとして遺体は腐り果てるに任されました。さぞ凄惨な眺めだったことでしょう。

 見せしめが効いたのかどうかは分かりませんが、奴隷の大規模な反乱はスパルタカスの乱(第3次奴隷戦争)以後は発生していません。

 奴隷制度はローマの生活を維持するために無くてはならないものだったのは既に記した通りです。奴隷戦争は社会制度を大きく揺るがしかねないエネルギーを持ったものでした。そのため、スパルタカスはローマを通じて極悪人のレッテルが貼られていました。畏怖された人物にとってはお約束の、「悪いことをしているとスパルタカスが来るよ」という子供への脅し文句があったそうです。

 全体的に見れば、彼らは過酷な支配体制から逃れようと反乱を起こし、周辺を略奪して回るという野盗の群れのような行動でローマを苦しめていますから、決して褒められた行動ばかりではないと思います。現代ではスパルタカスの英雄的側面がややクローズアップされすぎているのかもしれません。


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2016年11月03日

ローマ2 奴隷反乱6 ポンペイウス奴隷軍団の生き残りを殲滅し、ローマには自分が反乱を鎮圧と報告

 少なくとも、スパルタカスは全奴隷の解放などは考えていなかったでしょう。もし彼がローマを転覆することに成功して新政権のリーダーとなっていたら、ローマ人が奴隷にされたと思います。そういう社会構造が確立されていましたから。

 スパルタカスはこうして滅びましたが、それでも一部の反乱兵は戦場から逃げることに成功していました。

 同じ頃、反乱軍を目指しておっとり刀で急行する軍がありました。西方での反乱を片付けたポンペイウスです。

 反乱兵の生き残りは、運悪くポンペイウス軍に補足されてしまいます。ポンペイウス軍は戦いの最中に身をおいてきた、正真正銘の精鋭です。僅かな敗残兵が勝てるわけもなく、殲滅されました。

 ポンペイウスは自慢タラタラで、ローマにはなんと自分が反乱を鎮圧したと主張する報告書を送ってしまいます。ローマもローマで、届いたポンペイウスからの報告書をもとに功績を彼のものとしてしまったので、当然クラッススは面白くありません。

 戦勝の立役者という立場にちゃっかり収まったポンペイウスは、ルビコン川まで来ても軍を解散させないまま、40歳未満には認められていない執政官への立候補と凱旋式を要求します。

この行動は、仮に半世紀前であれば別の意味を持ったのでしょうが、ポンペイウスの時代には、誰一人として彼の意図を誤解しなかったことでしょう。

即ち、彼の要求を飲まなければ、ローマはスッラの時と同じ目に遭う、ということを。

元老院はポンペイウスに屈しました。

市民の絶大な人気を背景に、ポンペイウスには奴隷戦争に勝利した功績を讃える凱旋式が認められます。しかし、本来その栄誉をクラッススには認められません。辛うじて徒歩での凱旋行進が許されただけです。

 クラッススはポンペイウスを激しく憎むことになります。

 翌年の執政官選挙では、なんの因果かこの2名が選ばれます。ポンペイウスは36歳という若さでした。

 彼らはスッラに与して権力の座につきました。しかし、彼らに限らず、スッラ派で権力の座についた者たちはスッラのやり方に心酔していたわけではありません。スッラの法は既に骨抜きとされていました。


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2016年11月04日

ローマ2 ポンペイウスの栄光1 反スッラ派、ルシタニアに拠ってローマと対立する

 スッラ死後わずか3年で、護民官を経験した者は他の官職へのルートを閉ざされるという法律は廃止されています。民衆人気を背景に権力を握るような者がでないようにとのスッラの遺志は、あっという間に放棄されたのでした。

 ポンペイウスは更にスッラとは異なる体制への変換を推し進めます。ポンペイウスの改革の1つは、護民官の特権を復活させたことです。彼は若く、軍事的な成功こそ収めていましたが、特に有力な氏族の出身というわけでもなく、政界に太いパイプもありません。民衆からの人気を必要としたポンペイウスにとっては当然の路線だったかもしれません。

 しかし、誰もが知る名家出身で、ローマ随一の大金持ちのクラッススにとっては事情が異なります。もともと、感情面ではしっくり行っていなかった2人の対立は更に深まることとなります。

 ローマ政治の中心で執政官同士の反目が高まる中、座視し得ない重大な問題が起こっていました。

 時間を少々戻します。

 ポンペイウスがスペインに拠るマリウス派のセリトリウスの乱を鎮圧したことは既に述べました。その帰りにスパルタカスの乱の残兵を討ち果たしたのでしたね。

 クィントゥス・セリトリウスは、マリウス派ではありましたが、マリウスやキンナの強権的な振る舞いには批判的でした。

 もちろん、彼がマリウスたちの行動の一部に反対したことは、スッラの怒りを買わないで済む保証にはなりません。前83年には法務官となるのですが、スッラがローマに戻ると北アフリカに逃れるしかなくなります。

 更に、ルシタニア(ポルトガル地方の古名)人の招きでイベリア半島に渡ります。

 スッラは討伐の兵を送るが、セルトリウスはこれらを破ります。そして、ローマというよりはスッラ派と対抗すべく、イベリア半島をまとめ上げます。

 民衆派でスッラに追われた者にとっては絶好の亡命先です。民衆派は次々とルシタニアに入り、イベリアでローマ風の学校を作ったり、軍もローマ風に変えたりと、ローマでの生活を再現させていきます。


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2016年11月05日

ローマ2 ポンペイウスの栄光2 ルシタニアの反スッラ派、ミトリダテス6世と結んでローマ挟撃を狙う

 セルトリウスとしてはローマから独立した勢力を作る気など無く、スッラ政権を打倒することが目的でした。しかし、生半可な手段でスッラ派に勝てる訳がないといことも知っていました。

 そんなセルトリウスに悪魔が囁きかけます。その悪魔とは、反スッラではなく反ローマといえる人物、即ち、かのポントスのミトリダテス6世のことです。

 このような立場の人間にとって、「敵の敵は味方」は常に金言です。彼はミトリダテス6世の誘いに乗り、同盟を結んでローマと対抗する道を選びました。

 ローマを東西から結ぶ大戦略ですね。同じことを狙っていたハンニバルが聞けばさぞ羨んだ展開でしょう。なお、この時にグラディウスについての技術がミトリダテス6世に渡っています。

 ここでミトリダテス6世の事情を眺めておきましょう。

 前74年、ビテュニア王ニコメデス4世が死にあたって領土をローマに遺贈します。これを不服としたミトリダテス6世はアルメニアやボスボロスと語らってローマと三度対決することを選びます。こうして第3次ミトリダテス戦争が勃発しました。着々と準備を整えてたミトリダテス6世はビテュニアに攻め込んで総督を町に封じ込めると、アシア属州へ向かいます。

 ローマは既に強大な帝国となっており、二正面作戦に出ます。ヒスパニアにはポンペイウスを、アシアには執政官のルクッルス(スッラが最初にローマへ軍を差し向けた際に唯一従った将校の可能性のある人物)を送りました。

 ルクッルスは都市の防衛力とミトリダテス6世の補給線を断つ策に出ます。兵糧の切れたミトリダテス6世は兵士と攻城兵器を置き去りにして撤退せざるを得なくなりました。ルクッルスは撤退する敵の後背から襲いかかり、勝利を得ます。

 ミトリダテスの6世の誤算は、前72年にセルトリウスがイベリアでポンペイウスを相手に敗北を重ねて人心を失い、部下に殺されてしまったことです。指導者を失った反乱はあっけなく鎮圧されてしまいます。ミトリダテス6世の大戦略は崩れ去りました。


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