2016年07月01日

ポエニ戦争 第2次ポエニ戦争 イタリアでの地位確立2 スキピオを破ったハンニバル、ケルトを味方につける

 ハンニバルにとって幸運だったのは、スキピオが率いるローマ軍は経験を積んでいない新兵の寄せ集めだったことです。精鋭はハンニバルを補足・殲滅するべくスペインに渡っており、スキピオの手にあったのは事態の急変により新兵を中心に急遽編成された部隊だったのです。

 スキピオはティキヌス川に橋をかけて騎兵とともに対岸に渡ります。そこでカルタゴ側のヌミディア騎兵と遭遇、小規模な戦いとなります。勇猛なヌミディア騎兵はローマ騎兵を蹴散らし、遭遇戦に勝利します。小競り合いに勝利したことよりも大きかったのは、司令官のスキピオを負傷させたことでしょう。

 伝説では、スキピオがヌミディア騎兵に包囲されてあわや殺されそうになったところに17歳の息子で、父と同名のスキピオが救援に駆けつけて敵の包囲網を破り父を救出したとされます。しかし、これは事実では無く、息子スキピオを称えるべく創作された話とのことです。確かに、出来過ぎていますよね。

 父スキピオは退却し、プラケンティア城塞に立て籠もります。

 カルタゴとローマの戦いの帰趨を固唾を呑んで見守っていたガリア人は、次々とハンニバル支持を打ち出しました。

 ハンニバルはプラケンティアに押し寄せると、連日ローマ兵を挑発します。スキピオは負傷が癒えていないこともあり、籠城を続けて取り合いません。ローマ側で補助部隊となっていたケルト人は、ハンニバルが戦う姿勢に感じ入ります。ある日、遂にローマを見捨ててカルタゴに付きます。彼らの一部は手土産とばかりにローマ兵の首を持ってカルタゴ軍に投じたそうですから、ローマ軍にとっては大打撃です。尚、ハンニバルは彼らを故郷に返しています。これは兵士の補充が不要であるということではなく、ハンニバルの温情的な措置を故郷で宣伝してもらうための手法です。

 ケルト人の裏切りにあったスキピオはプラケンティアを捨てて丘の上に堀を巡らせ、柵を築いて陣地を構築します。ハンニバルの決戦兵器である騎兵とゾウの効果を失わせるものです。堅守を保って野戦を避け、ひたすら時間が経つのを待てば、帰るところのあるケルト人は長期滞陣に倦んで故郷へ帰ってしまい、ハンニバルは同盟軍も補給物資も失って自滅すると踏んだのです。慧眼です。


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2016年07月02日

ポエニ戦争 第2次ポエニ戦争 イタリアでの地位確立3 ハンニバル、功に焦る敵将センブロニウスを罠にかける

 スキピオの華々しさは無いものの堅実な作戦を破棄させたのは、敵ではなく味方でした。

 ローマ側にはセンプロニウスの率いる援軍が到着します。指揮官に相応しいのは、これまで軍の指揮を取ってきたスキピオなのですが、彼は負傷しており陣頭指揮はできません。そこでセンプロニウスが指揮官となるのですが、功に逸る彼はスキピオの制止を振り切ってハンニバルと決戦することを選びます。

 センプロニウスが短兵急な決戦を望んだのは、政治的野心が背景にあったとも指摘されます。一方で、補給線すら無くした、自軍と同規模の敵軍が自国内を略奪して回り、何とか帰順させたケルト人まで次々と反旗を翻しているいるという状況下で、指を咥えて見ているだけでは居られない、という事情もあったことでしょう。

 前218年12月、センプロニウスが率いるローマ軍団1万6,000、ケルト人2万、イタリア人騎兵4,000と、カルタゴ軍3万(下山後に組み入れたケルト人部隊を入れての数字)は遂に正面から戦うことになります。見ての通り、カルタゴはローマよりも寡兵でした。

 その日は寒い日でした。前日から降り続く冷たい雨は、明け方には雪に変わっていました。

 準備を整えたハンニバルは、狙いの時間に、狙った戦場へローマ兵をおびき寄せるためヌミディア騎兵を使ってローマの陣地に襲撃をかけさせます。まだ朝食前だったローマ軍は、この挑発に乗って陣地を出ます。

 ヌミディア騎兵はローマの勢いに押されて退却します。

 敵、恐れるに足りず。

 そう思ってしまっても無理はなかったのかもしれません。野心が目を曇らせていた場合は特に。センプロニウスは全軍を率いてヌミディア騎兵を追撃し、勢いのままにトレッピア川を渡りました。

 もちろん、ヌミディア騎兵が逃げ出したように見えたのは作戦です。ペルシアがスキタイ相手に大敗した史実に見えるように、騎兵は機動力を活かしてヒットアンドアウェイ作戦を行うのが得意です。ヌミディア騎兵も同様に、軽騎兵が投槍を敵に投げつけては反撃を受ける前に後退するのもお手の物だったのです。


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2016年07月03日

ポエニ戦争 第2次ポエニ戦争 イタリアでの地位確立4 包囲殲滅戦によりセンブロニウス軍は壊滅

 先に書いた通り、この日は冷たい雪混じりの雨の日でしたね。雨と雪でただでさえ冷たい冬の川はいつにも増して温度を下げており、川に入ったローマ兵の体力を削っていきます。

 川を渡った先でカルタゴ軍は待ち構えていました。ローマ軍は意気こそ軒昂だったかもしれませんが、兵士たちは空腹で、寒さに震えていました。一方のカルタゴ軍は、武器の手入れは勿論のこと、しっかり朝食を摂り、寒気対策として身体に油まで塗って準備万端整えていました。孫子の兵法に言うところの、佚を以て労を待つ(休養十分な味方で疲労困憊した敵を討てば勝利は容易い)にぴったり重なります。

 正面からぶつかればカルタゴが勝つことは既に定まっていたように思います。しかし、それだけで満足するハンニバルではありません。彼は勝利を盤石のものとするため、打てる手は全て打っていたのです。すなわち、ハンニバルは既に低木の茂みに弟のマゴが率いる一部兵力を隠していたのです。

 開戦前から万全の体制を整えたハンニバルは、歩兵の両翼に騎兵、更に最前列には戦象部隊を並べて、正面からも側面からも攻撃できるように陣を構えます。ローマもまた3列横隊の戦闘隊形を取ります。

 カルタゴの騎兵がローマ軍の側面から回り込んで攻撃を開始して先端が開かれます。ローマは敵の動きに呼応、正面からの敵に応戦します。ローマ軍の注意が正面と側面に集中したまさにこのタイミングで、マゴがローマの背後から襲いかかりました。包囲網の完成です。四方から攻めたてられたローマ軍は一方的に討ち取られるばかりでした。

 ローマ軍の一部は何とか包囲網を切り開いて、東へ逃げることに成功しますが、取り残されたローマ兵はゾウに踏み潰されたり川に突き落とされたりして、壊滅しました。数少ない生き残りの中には指揮官センプロニウスの名前も見えます。

 カルタゴの圧倒的な勝利です。しかも、カルタゴ軍の数少ない犠牲の大半はケルト人で、ハンニバルは戦力をほぼ落としませんでした。


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2016年07月04日

ポエニ戦争 第2次ポエニ戦争 イタリアでの地位確立5 ハンニバルの勝利でケルトはローマ派とカルタゴ派に別れる

 ケルト人は1対1の対決を好みました。75〜80cm程の刀身の両刃の長剣、兜と大型の盾で武装した彼らは、剣を頭上で振り回してから相手に叩きつけ、武器を断ち切るという豪快な戦い方で勇猛な戦士として有名な存在だったのです。一方で集団戦術には弱く、カルタゴやローマのように組織だった戦い方をする相手には不利でした。こうしたことからケルト人の戦傷者が多かったことに加えて、ハンニバルが最も犠牲の多くなりそうなところにケルト人を配したことも拍車をかけたことでしょう。

 スキピオとセンプロニウスは、多くの兵士を失った今となっては陣を支えることはできないと判断し、城塞都市クレモナへと撤退します。センプロニウスは元老院への報告のためローマへ戻り、スキピオが再び指揮官となりました。

 センプロニウスは元老院で敗北を過小に報告しようとしたり、経緯を取り繕おうとしますが、スキピオが自重を求めたことを無視して戦い急いで敗北した経緯が詳細が明らかになると、名声を失います。急いては事を仕損じる、とはこのことですね。

 冬の残りの期間、スキピオは城塞に立て籠もり、カルタゴ軍と正面切って戦うの愚を避けます。ハンニバルは周辺一体を席巻しました。町が占領され、人々は奴隷とされます。

 等と書くと、カルタゴ軍やハンニバルが冷酷な圧制者に見えますが、悲しいことに当時にあっては勝者のごく普通の姿でした。ローマも占領地では男は殺し、女子供は奴隷にしていましたから、大きな違いはないのです。私たちは奴隷を持っていませんし、必要ともしていませんが、それは電気があるからに過ぎないことを忘れてはなりません。

 ハンニバルは冷酷であったと伝えられるのは事実ですが、記録しているのがハンニバルに苦杯を嘗めさせられ続けたローマの人々であることを考えれば、彼の行動は当時の当たり前のことだと判断できそうです。後にはローマが征服した都市を容赦なく破壊していく様を眺めることになります。

 ハンニバルの大勝により、ケルト人の態度は二分されることになります。勝者のハンニバルに与するものと、ローマに助けを求めるものと。味方に付いたケルト部族のおかげでハンニバルは冬の間の補給に関しては心配しなくて良くなりました。次に懸念されるのは、ローマの出方です。


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2016年07月05日

ポエニ戦争 第2次ポエニ戦争 ハンニバルの栄光1 ローマはハンニバルの南下に備えて2個軍団を派遣する

 ローマは10個軍団を保有しています。2個軍団はスペインにあり、サルディニアとシチリアにそれぞれ1個軍団が配備され、ローマ防衛に2軍団が割り当てられていましたので、自由に動かせるのは4軍団です。この4軍団がハンニバルとの対決に向けて動き始めます。

 ハンニバルはただ北イタリアに居座って満足する訳がありません。必ず南下して来ます。

 そこでローマ側はアペニン山脈を自然の防壁として使うこととし、防衛計画を立てます。2人の執政官のうち、フラミニウスはアペニン山脈を越えての攻撃ルートを扼する要衝に、もう1人のセルウィリウスはハンニバルが山脈を迂回した場合に備えてアドリア海沿いを進み、アリミヌム(現在のリミニ)に布陣しました。ハンニバルが進む可能性のある2つのルートを共に守れるだけの兵力がローマにはあったのです。

 前217年春、ハンニバルは満を持して侵攻を再開します。情報収集に抜かりのないハンニバルは、ローマ軍の配置を考慮してアレティウムから危険な山道を進みます。味方に付いたばかりで信頼性に欠けるケルト人が逃走しないよう、前後をスペインとアフリカから付き従う軍で挟んでの進軍でした。

 道は悪路で、やがて湿地帯を足首まで水に浸かりながらの行軍を避けられなく成ります。間もなくカルタゴ軍の間で疫病、熱病が流行し始めました。ゾウのシーリーに座乗して移動してたハンニバルも熱病に冒され、右目を失明しました。人間だけが苦しんだわけではなく、ウマの蹄も腐り、役に立たなくなります。

 苦しみの末に湿地帯を抜けることで、カルタゴ軍はローマ軍を躱してエトルリアに侵入することに成功すると、田園地帯を荒らし回りました。

 補給の必要性があったことは勿論、ローマ近郊での略奪をローマ軍は見過ごすことができず、野戦を挑んでくると計算したためです。

 尚、補給物資の現地調達は近代戦に至るまではごく普通のことでした。ナポレオンの時代ですら徴発に頼っていました。ナポレオンがロシア侵攻で大敗した一因は、モスクワすら焼き払う徹底した焦土作戦でまぐさにも事欠くようになったことです。余談を少々続けますと、ナポレオンを打ち負かしたのはロシアの寒さではありません。寒波の到来する前に、既にナポレオンは敗れていたのです。ただ、長い長いフランスへの敗走は、寒波到来もあって非常に厳しいものだったそうです。


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