2016年05月29日

ローマ 共和制の成立11 サムニウム戦争と天才的戦術家ピュロスとの戦い

 今度はサムニウム人、エトルリア人に加えてケルト人までもがローマ包囲網に加わっていました。しかし、ローマはまず南方でサムニウム人を破り、続いて北方に軍を転じてエトルリア人、ケルト人相手に勝利してこの危機を脱します。前290年のこの決定的な勝利によりアドリア海までが勢力下に入り、サムニウム人もローマに飲み込まれていきました。

 全イタリアを支配せんとするローマに対して最後に立ち向かったのが、イタリア半島南岸に位置するギリシア系ポリスのタレントゥムです。ギリシアで見た通り、諸ポリスは地中海各地で積極的に植民活動を行っていましたね。彼らは母市同様、独立の気風が強く、ローマの支配を安々と受け入れることは無かったのです。

 ローマ勢力の伸長を嫌ったタレントゥムの人々により、ギリシア南岸にあったエペイロスのピュロスが呼び寄せられます。ピュロスといえば、アレクサンドロス3世亡き後のディアドコイ戦争において、ギリシアを中心に暴れまわった人物でしたね。

 ピュロスは同時代に名を轟かせた戦術家としての腕を発揮し、前280年のヘラクレアの戦い、前279年のアスクルムの戦いでローマに連勝します。勝利したピュロスは和平を提案し、元老院も和平に流れそうになりますが、年老いて失明していたアッピウスが元老院に乗り込んで和平反対の演説をぶつと、議会の雰囲気は和平拒否へと変わり、戦争継続が決まります。

 一方のピュロスは、勝利こそ得たものの、戦いのたびに大きく戦力が削られたことから、次にローマを破っても我々の軍は壊滅するだろう、と語っています。このことから、割にあわない勝利をピュロスの勝利(Pyrrhic Victory)と言うようになったのはディアドコイ戦争の項で既に記した通りです。

 和平交渉にあたり、ローマは捕虜の身代金をピュロスに渡そうとしますが、ピュロスは自分は商売に来たのではないかと受け取りを拒み、和平の前祝いとして捕虜を無償で返還します。ローマは和平とならなかったら捕虜を返すと約束します。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ローマ1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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