2016年05月28日

ローマ 共和制の成立10 すべての道はローマに通ず 道路の女王アッピア街道

 アッピア街道にその名を残すアッピウスは道路だけではなく水道(アッピア水道)を通すことでローマのインフラ整備にも力を発揮しています。監察官を4年務め、前307年には執政官にも就任しましたが、軍事司令官としては有能ではなく兵士からの支持も得られませんでした。

 しかし、彼の作った道路はローマの勢力拡大には絶大な力を発揮します。軍の移動を迅速にするため、あるいは攻城戦に使用されるバリスタや弩砲を使うためには舗装された道路が必要だったことが建設の背景にあったのです。そのため、平時にあっては軍隊や工兵を中心に、奴隷や捕虜まで動員して道路建設に当たりました。

 ローマ帝国の最盛期である1〜2世紀に道路網の完成を見ることになります。北イギリスからサハラまで、モロッコからユーフラテス川まで結ぶ長大なものです。凡そ50キロ毎に井戸や水槽を整備、マイルストーンも建てました。4世紀には帝国の力が衰え、道路の維持すらできなくなり、以後は衰えていきます。

 道路網の根底にある思想はアケメネス朝ペルシアで発達した王の道かも知れません。技術面の話で言えば、エトルリアが起源である可能性が指摘されています。また、ギリシアが影響を与えたかも知れません。

 路面は凸型で、雨水は側溝に流れこむ仕様でした。

 ローマが他の文明と異なるのは、道路が直線状だったことでしょう。勿論、起伏の激しい土地ではまっすぐの道路は困難です。イタリア本国ではなかなか直線にできず、ローマに入る道路ではアッピア街道だけが直線となっています。彼らの技術が優れていた証拠に、長さ300メートル以上の橋があったことを挙げておきましょう。障害は極力避けていたが、避けられないならトンネルや切通も設けていました。

 皇帝の特命があれば、最速で1日240キロで手紙が届けられた、という記録があります。

 やや先走って道路話に行ってしまいました。戻りましょう。

 サムニウム人はエトルリア人と結び、南北からローマを挟撃しようと図りますが、ローマは各個撃破により勝利を収め、ローマ有利な条件で和議を結びます。

 こうして第2次サムニウム戦争は終結したのですが、サムニウム人はローマ勢力の伸長を恐れ、和議を破棄して立ち上がります。第3次サムニウム戦争の勃発です。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ローマ1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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