2016年05月19日

ローマ 共和制の成立1 傲慢王タルクィニウスが追放され、王政復古を防ぐため2名の執政官が選ばれる

 人民(populus)には選挙権が与えられたのですが、ここで言う人民とは商人階級と貴族階級に限定されています。つまりは富裕層です。それを反映してか、公職は無給でした。

 初代の執政官に選ばれたのは傲慢王追放の立役者ルキウスと、妻を強引に奪われたコラティノスです。2人の執政官は共に傲慢王の人脈に連なる身ではあったのですが、より親しい仲だったコラティノスはタルクィニウス派と見られたために支持が失われていき、最後は亡命を余儀なくされます。

 前509年、タルクィニウス傲慢王はローマの権力争いの隙をついて自分の復権を図ります。タルクィニウスはローマに自分の残してきた財産の返還を求めて使者を送るのですが、この使者こそが裏工作の担当者だったのです。使者はルキウスの妻と2人の息子を含む人々に王政復古を求めて立ち上がるよう説得します。

 謀略は密告によって顕わとなり、王政復古派は粛清されます。この時、ルキウスは涙をのんで2人の息子を処刑しています。泣いて馬謖を斬るどころの騒ぎではありません。

 搦手からの攻略が潰えたことを受け、タルクィニウスはローマに攻め寄せます。ルキウスはこの期に及んでまだ復権を企むタルクィニウスを激しく罵り、出撃します。激戦の中でルキウスはタルクィニウスの息子アルンテスと共に戦死しました。

 尚、このルキウス・ユニウス・ブルートゥスはカエサル暗殺の中心となったブルートゥスの先祖とされています。しかし、息子は2人共処刑されて、ルキウスはその後すぐに戦死しているわけですから、どのようにして子孫が残ったのか、疑問です。直系の子孫ではないのかも知れません。

 ルキウス戦死後、プブリウス・ウァレリウス・プブリコラが戦争指導を行います。タルクィニウスは敗退し、次はラテン同盟を率いてローマと戦います。多くの名士を戦死させるものの、再び敗れて抵抗は終わりました。このようにして、ローマの王政は7代にして終わったのでした。

 戦勝を祝うため、プブリウス・ウァレリウス・プブリコラは戦車でカピトリウムの丘に上ります。これが後の凱旋式のルーツとなりました。凱旋式は勝利を収めた将軍に対して元老院と民会で決めることになります。凱旋式を行う将軍には凱旋司令官の称号が与えられ、公人しか凱旋式を行えないことから公職在任中なら凱旋式までその地位に、任期終了していれば他の公職を与えられました。


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posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ローマ1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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