2016年05月26日

ローマ 共和制の成立8 一難去ってまた一難、ケルトの後にはサムニウム人との戦いがローマを待ち受ける

 軍事改革はこれくらいにしておきましょう。

 前367年にもケルトは襲来し、カミルスは老齢の身で再び独裁官に選ばれ、ケルト軍を粉砕しました。凱旋式4回、独裁官に推薦すること5回という、前人未到の功績を挙げていることからカミルスは第二の建国者と讃えられることになります。

 しかし、劇的な話が個人に集中しすぎていることもあり、カミルスの伝説も、歴史と神話の間にあるものと見られています。確かなのは、ローマがケルトに占領され、その後30年も経たないうちに復興したことです。その折々で活躍した英雄たちの功績や伝説がカミルスという個人に集約された結果なのかもしれません。

 復興したローマの前に新たな敵が現れます。ローマの南、カンパニア地方に山岳民族のサムニウム人が勢力を広げようとしていたのです。カンパニアの都市カプアはローマに助けを求め、こうして前343年から前341年まで続く第一次サムニウム戦争が幕を開けます。ローマは勝利を得て、和平を結びました。しかし、ローマのみが勢力を伸ばすことに周辺の都市は反発します。こうしてラテン同盟は反ローマに立ち上がりますが、カンパニア駐在のローマ軍は直ちに反乱を鎮圧します。ケルト人との戦いで培った技能は伊達ではありませんでした。

 無敵に見えたローマですが、再びサムニウム人と戦争(第二次サムニウム戦争 前327年〜前305年)に突入すると、思わぬ苦戦を強いられます。

 平地の戦いは、言ってみれば都市を攻略するための戦いです。謂わば、点を支配すればよいのです。しかし、山岳民族は険阻な山でゲリラ戦を行うばかりなので、面を制圧しなければなりません。必然的に攻撃側は広い地域に軍を分散し、しかもいつ敵襲があるか分からない状態です。対する防御側は、敵の最も薄いところに兵力を集中させ、しかもヒットアンドアウェイで犠牲を強いていけば良いわけですから、どちらが有利かは一目瞭然ですね。苛立ったローマはサムニウムを徹底的に滅ぼすべく、4軍団をカンパニア東部へ派遣します。

 ポンティウスに率いられたサムニウム人は、羊飼いに紛争させたスパイをローマ軍に送り、ローマの同盟国がサムニウム人に滅ぼされそうになっていると訴えます。山岳ゲリラが平地に出て都市攻囲戦を行うということは、彼らが地の利を捨て、しかも集結しているので一網打尽のチャンスなのです。


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2016年05月27日

ローマ 共和制の成立9 サムニウム人に負けたローマ軍、屈辱に耐えて復讐の機会を窺う

 ベトナム戦争の際、ゲリラ戦で米軍を翻弄したベトコンゲリラが1968年のテト攻勢で実際には大きな犠牲を出して敗退したのは、将にこの過ちを犯したからです。ただ、テト攻勢の場合には、一斉攻撃の模様を西側メディアが派手に報じ、特に終戦間近だと信じていたアメリカ人にとっては大使館まで一時占拠される事態は想定外で反戦機運の醸成には成功しています。

 さて、主戦論をリードした執政官は、サムニウムを滅ぼす千載一遇の好機到来と、険しい山道を進みました。しかし、これは先述の通り、スパイの偽情報に踊らされてのことですから、結末は明らかですね。彼らは隘路に入ったところで包囲され、絶体絶命の危機に陥ります。

 もしサムニウム人が攻勢に出ていれば、ローマ軍団の壊滅は必至でした。しかし、ポンティウスはローマとの全面対決を望んでいたわけではありません。目先の勝利に釣られることなく政治的な落とし所まで見据えていたのです。彼はローマ軍団を生かして返す代わりに、占領地の返還と、恭順の意を表する象徴である槍の頸木の下をくぐり抜ける刑を受けることを要求します。そのような屈辱をうけるくらいなら戦って死ぬと兵士たちは息巻きますが、執政官は屈辱に甘んじ、生き残る道を選びます。サムニウム人の罵詈雑言の中、兵卒は下着まで脱いでその下をくぐらされました。

 ローマ人は敗北に打ちひしがれて恐れを抱くような人々ではありません。新たな軍を編成すると、今度は自分たちで敵の情報をしっかりと探り、サムニウム人の町に襲いかかります。頸木の下をくぐらなければならなくなったのは、今度はサムニウム人の番でした。

 楚漢戦争で漢を天下統一に導いた立役者で国士無双と謳われることになる韓信がまだ若い頃に臆病者と罵られ、股をくぐらされたのと同じような屈辱でしょうか。もっとも、大望を胸に秘する韓信は片田舎で威張り腐るだけの小人を相手にしていなかっただけかもしれませんが。

 サムニウム人との戦いは20年以上に渡って続いています。この間に、執政官のアッピウス・クラウディウス・カエクスにより、征服地カプアとローマを結ぶ全長211kmのアッピア街道が作られています。


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2016年05月28日

ローマ 共和制の成立10 すべての道はローマに通ず 道路の女王アッピア街道

 アッピア街道にその名を残すアッピウスは道路だけではなく水道(アッピア水道)を通すことでローマのインフラ整備にも力を発揮しています。監察官を4年務め、前307年には執政官にも就任しましたが、軍事司令官としては有能ではなく兵士からの支持も得られませんでした。

 しかし、彼の作った道路はローマの勢力拡大には絶大な力を発揮します。軍の移動を迅速にするため、あるいは攻城戦に使用されるバリスタや弩砲を使うためには舗装された道路が必要だったことが建設の背景にあったのです。そのため、平時にあっては軍隊や工兵を中心に、奴隷や捕虜まで動員して道路建設に当たりました。

 ローマ帝国の最盛期である1〜2世紀に道路網の完成を見ることになります。北イギリスからサハラまで、モロッコからユーフラテス川まで結ぶ長大なものです。凡そ50キロ毎に井戸や水槽を整備、マイルストーンも建てました。4世紀には帝国の力が衰え、道路の維持すらできなくなり、以後は衰えていきます。

 道路網の根底にある思想はアケメネス朝ペルシアで発達した王の道かも知れません。技術面の話で言えば、エトルリアが起源である可能性が指摘されています。また、ギリシアが影響を与えたかも知れません。

 路面は凸型で、雨水は側溝に流れこむ仕様でした。

 ローマが他の文明と異なるのは、道路が直線状だったことでしょう。勿論、起伏の激しい土地ではまっすぐの道路は困難です。イタリア本国ではなかなか直線にできず、ローマに入る道路ではアッピア街道だけが直線となっています。彼らの技術が優れていた証拠に、長さ300メートル以上の橋があったことを挙げておきましょう。障害は極力避けていたが、避けられないならトンネルや切通も設けていました。

 皇帝の特命があれば、最速で1日240キロで手紙が届けられた、という記録があります。

 やや先走って道路話に行ってしまいました。戻りましょう。

 サムニウム人はエトルリア人と結び、南北からローマを挟撃しようと図りますが、ローマは各個撃破により勝利を収め、ローマ有利な条件で和議を結びます。

 こうして第2次サムニウム戦争は終結したのですが、サムニウム人はローマ勢力の伸長を恐れ、和議を破棄して立ち上がります。第3次サムニウム戦争の勃発です。


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2016年05月29日

ローマ 共和制の成立11 サムニウム戦争と天才的戦術家ピュロスとの戦い

 今度はサムニウム人、エトルリア人に加えてケルト人までもがローマ包囲網に加わっていました。しかし、ローマはまず南方でサムニウム人を破り、続いて北方に軍を転じてエトルリア人、ケルト人相手に勝利してこの危機を脱します。前290年のこの決定的な勝利によりアドリア海までが勢力下に入り、サムニウム人もローマに飲み込まれていきました。

 全イタリアを支配せんとするローマに対して最後に立ち向かったのが、イタリア半島南岸に位置するギリシア系ポリスのタレントゥムです。ギリシアで見た通り、諸ポリスは地中海各地で積極的に植民活動を行っていましたね。彼らは母市同様、独立の気風が強く、ローマの支配を安々と受け入れることは無かったのです。

 ローマ勢力の伸長を嫌ったタレントゥムの人々により、ギリシア南岸にあったエペイロスのピュロスが呼び寄せられます。ピュロスといえば、アレクサンドロス3世亡き後のディアドコイ戦争において、ギリシアを中心に暴れまわった人物でしたね。

 ピュロスは同時代に名を轟かせた戦術家としての腕を発揮し、前280年のヘラクレアの戦い、前279年のアスクルムの戦いでローマに連勝します。勝利したピュロスは和平を提案し、元老院も和平に流れそうになりますが、年老いて失明していたアッピウスが元老院に乗り込んで和平反対の演説をぶつと、議会の雰囲気は和平拒否へと変わり、戦争継続が決まります。

 一方のピュロスは、勝利こそ得たものの、戦いのたびに大きく戦力が削られたことから、次にローマを破っても我々の軍は壊滅するだろう、と語っています。このことから、割にあわない勝利をピュロスの勝利(Pyrrhic Victory)と言うようになったのはディアドコイ戦争の項で既に記した通りです。

 和平交渉にあたり、ローマは捕虜の身代金をピュロスに渡そうとしますが、ピュロスは自分は商売に来たのではないかと受け取りを拒み、和平の前祝いとして捕虜を無償で返還します。ローマは和平とならなかったら捕虜を返すと約束します。


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2016年05月30日

ローマ 共和制の成立12 ピュロスを排除し、ローマはイタリア全土を掌握する

 既に述べた通り、ピュロスとローマの和平交渉は決裂していました。ローマは約束通り捕虜を返還しましす。ローマはこの堂々とした態度が良いですね。

 名将ピュロスの手を借りたい者は多く、この頃にピュロスはシチリア島のカルタゴ勢力を追い払って欲しいとの依頼と、プトレマイオス・ケラウノスがケルトに破れて死んだ後を継いでマケドニア王になって欲しいとの依頼が来ます。ピュロスはシチリアへ向かいカルタゴの都市を攻略しますが、シチリア島を自分なや手に収めようとして支持を失い、またタレントゥムに戻ります。

 しかし、この留守は高くつきました。ローマは敗戦のダメージを既に回復しており、前275年のベネウェントゥムの戦いではピュロスを破ります。ピュロスはエペイロスへ戻り、マケドニアの争いに介入したことを始め、各地を転戦し、やがて戦死します。

 タレントゥムは見捨てられた格好ですね。前272年にローマはタレントゥムを下し、イタリアを手中に収めました。

 全イタリアを制したローマは良港も手に入れます。この膨張の行き着く先は、地中海です。既に書いてきた通り、物資の輸送には陸上より海上の方が圧倒的にエネルギー効率に優れています。他の地域から食料や奢侈品を運んでくるにも、軍を送り込むにも有利です。ローマが地中海へと出て行くのはもう歴史的必然であったと断言できます。

 しかし、地中海には既に我が物顔に振る舞う勢力がありました。それこそ、航海名人のフェニキア人による国家、カルタゴです。ローマはカルタゴと戦い、滅ぼすことで大きな飛躍を遂げることになりました。その顛末については別の項を作って見ていくことと致しましょう。


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