2016年05月11日

ローマ 建国神話6 ロムルスの跡を継いだサビニ人のヌマ、ローマ改革に力を発揮する

 誰の目にも明らかなのは、ロムルスの次の指導者を選ばなければならない、ということです。

 ローマが独特なのは、ここでロムルスの息子が担ぎだされたわけではないことでしょう。多くの場合、独裁的な権力を握る人物は自分の子を次の支配者に指名します。前時代的な北朝鮮は今でもやっていることです。子孫に王権を伝えられなかったのは、王の子どもとは言え、まだまだ未熟な若者が側近たちを御することは無理だったからでしょう。ソ連や中国のように独裁者が何千万も殺せるような強力な権力を握っていても、権力の世襲は出来なかったことと考え合わせると面白いかもしれません。

 ロムルスの次の王に名乗りを上げたのは、ユリウス・プロクルスなる人物です。彼は、ロムルスからのお告げだとして、「私(=ロムルス)は神になってローマを去ったので、次の王を選ぶべし」と言っていたと主張、自分がその王の候補者に名乗り出ました。随分と図々しい話ですが、この人物こそ、ユリウス・カエサルの先祖として歴史上に現れる最初の人物です。

 一方、サビニ人からは次の王はサビニ人から選ぶよう、要求が出されました。ロムルスとタティウスの共同統治が崩れた後、サビニ人からは後継者が出ていなかったのですから彼らの要求も当然でしょう。ローマ人は条件付きで同意します。その条件とは、ローマ人がサビニ人から王を選ぶというものでした。

 ローマ人達によって次代の王に選ばれたのは、タティウスの息子のヌマ・ポンピリウスでした。ヌマは断りましたが、度重なる要請に遂に折れ、王となります。ヌマの治世はとても優れたものでした。そのためか、神の助言を得ていたという話まで出ます。ヌマは妻が死んだ後、エゲリアというニンフと親しくなったとされています。このエゲリア経由で神からの助言を得ていた、というのです。

 神の影響すら噂されたヌマは、何をしたのでしょうか。

 まず、部族間の対立をなくすため、「パギ」(「教区パリッシュ」の語源)と呼ばれる細かな集団に再編しています。ということは、それまでは同じローマに住んでいても部族間では争いが絶えなかったということですね。

 ロムルスとレムスの故郷、アルバ・ロンガからウェスタの処女を導入したのもヌマです。ウェスタの処女は、ローマの安定を司るとされた火床の神ウェスタに仕える女性たちのことです。定員は6人で、彼女たちはウェスタの具現とされた聖なる火を守り続けることを義務とします。様々な特権を与えられた代償として、在任中に子を持つことは許されません。処女を失った場合は殺されるのですが、血を流しては行けないということで生きたまま埋葬されてしまいます。30年の任期が過ぎれば結婚が許されるようになるのですが、殆どはどのまま巫女であることを続けたそうです。



面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ローマ1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月12日

ローマ 建国神話7 謎めいたルールにより月の名前と順番が狂う

 生活に密着するところでは、暦を修正したことが大きな功績です。それまで、ローマでは10ヶ月の太陰暦が使われていました。およそ300日分しか無いものです。1年間が365日少々であることを考えると困ったことになりそうですが、当時はまだまだ農耕に生きる人が多かったので大丈夫だったのです。種まきの時期は天文現象からわかりますから、その月を1月として、収穫や冬に備えて保存食を準備するまでの10ヶ月がカウントできれば良かったのです。

 ところが、都市型の生活を送るようになるとこれでは困ります。そこで、1年間が360日となるよう、暦を修正したのです。ところが、この時に少々強引に月を足したため、名前と実際の月にズレが生じます。すなわち、当時のローマの暦を3月からスタートするとし、1月はヤヌスからとってJanuaryとし、清める(febrare)からとったFebruaryを付け加えたのです。それまで7、8、9、10番目の月を意味するSeptember、October、November、Decemberは9月、10月、11月、12月となってしまいました。8本足のタコをOctopusというように、Octoは8なのにOctoberが10月なのはこうしたわけです。

 尚、元々は7月、8月も順番を表す名前だったのですが、ユリウス・カエサルとアウグストゥスの名前を付け直しJuly、Augustとなっています。

 ローマ法の確立にも大きな力を発揮したそうで、先代のロムルスとは違って戦争で国を広げることはしなかったわけですが、ローマを偉大な国に導くには一役買っていると言えるでしょう。むしろ、戦争が無かった分だけ庶民には過ごしやすかったかもしれません。

 彼は国を栄えさせただけではなく、子孫の繁栄にも功績大でした。その1人娘と4人の息子は名門一族になっていきます。

 ヌマが死ぬと、次は再びローマ人から王を選ぶ番です。選ばれたのは好戦的なトゥッルス・ホスティリウスという人物です。

 その頃、ロムルスの出身地アルバ・ロンガと一触即発の状態となっていました。戦争になると多くの犠牲が生まれることから、それぞれの都市を代表する3人兄弟に決闘させ、負けた方の都市は勝った方の都市に従属することと決めます。

 勝ったのはローマのホラティウス兄弟でした。負けたアルバ・ロンガの王メッティウスは結果に不満を抱きます。しかし、誓いがあるため従わざるを得ません。なんとかしようと近隣のフィデナテス人をけしかけてローマに攻撃を仕掛けさせてしまいます。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
ラベル: ヌマ
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ローマ1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月13日

ローマ 建国神話8 漁父の利を狙うアルバ・ロンガ、策を見ぬかれローマに併呑される

 フィデナテス人に呼応してアルバ・ロンガ人も軍を動かします。そして、フィデナテス人が来るとローマへの道を開けました。

 ローマ王ホスティリウスはアルバ・ロンガ軍の動きを見てメッティウス王はローマとフィデナテス人が戦うところを高みの見物としゃれ込み、勝った方に味方して漁夫の利を得ようとしていると見抜きます。ホスティリウスの方が上手だったのは、「アルバ・ロンガ軍は敵を側面から攻撃するために後退したのだ」と大声で叫び、味方を鼓舞すると同時にフィデナテス人に疑心を与えたことでした。

 フィデナテス人は混乱して後退を始めます。そこにローマ軍が襲い掛かったものですから堪りません。メッティウス王はローマが有利だと見るや、フィデナテス人に向かって攻撃を仕掛けます。とんでもない裏切り者です。フィデナテス人こそいい面の皮でしょう。

 勝利したローマ軍はその夜、何も知らずに眠りこけるアルバ・ロンガ軍を包囲します。こうなってはアルバ・ロンガは手も足も出ません。こうしてローマはメッティウスを捕えました。卑劣なメッティウスの足を2台の戦車に縛り付けると、戦車が別々の方向に走り出し、彼の体を引き裂きます。残虐な処刑方法と感じますが、これはなにもローマだけのことではなく、日本でも車裂きとして行われた方法です。中国でも古来行われていたことが知られています。後に秦を強国に導いた商鞅がこの方法で処刑されてく姿を見ることになるはずです(私の根気が続けば、ですが)。

 こうした犠牲を見ると、3人兄弟に決闘などさせずに最初から直接戦った方が犠牲は少なかったと言えましょう。これもローマが建国の英雄ロムルスの故郷を武力で併呑したことを正当防衛に装った話かも知れません。

 さて、亡国のアルバ・ロンガは破壊され、住民はローマに移されます。このことから、当時のローマにはまだ中央集権的な組織を作ることはできなかったこと、土地不足と人不足では後者が勝っていたことが分かります。ローマは敗戦国の人間でもローマ市民権を与え、それにより国としての活力を高めていきます。

 ホスティリウスの戦争はまだ続きます。ローマへ移住した人々とは別に暮らしていたサビニ人がローマ人を誘拐する事件が起こるとサビニ人と戦火を交え、他にも戦争を続けていきます。しかし、ローマで疫病が流行ったため、戦争継続が不可能になり、停戦を余儀なくされたこともあります。

 戦いに生きて歳を取ったホスティリウスは考え方が変わったのか、神を信じるようになります。早速先王ヌマの残した記録を参考にユピテルに祈りを捧げていると、神殿に落が雷ち、焼け死んでしまいました。よほど頓珍漢な儀式をして神を怒らせたか、はたまた今更虫が良すぎると判断されたのでしょう。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
ラベル:ローマ
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ローマ1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月14日

ローマ 建国神話9 ローマより強かった?歴史に消えたエトルリア文明の技術はローマに残る

 次の王はヌマを母方の祖母に持つサビニ人のアンクス・マルキウスです。

 戦争に明け暮れたホスティリウスが死んだのを良いことに、近隣では反ローマの機運高まっていました。マルキウスは祖父とは異なり果断な人物ですから、撃って出ると敵を打ち破ります。まだ勢力が弱く、不安定な次代にはこうした果断な王が必要なのかもしれません。

 彼は最初の水道橋を建設したことで知られます。尚、マルキア水道(ローマから水源までの91kmを結びました)はこのマルキウスの業績に因んで名付けられたものではありますが、前144年建設で、マルキウスの手によるものではありません。建設に関わった者の中にマルキウスの子孫にあたる法務官クィントス・マルキウス・レクスがいたため、遥か先祖に遡った名前を付けたのです。

 水道技術、特にアーチ構造の知識はエトルリア人からの移入であるとされます。

 エトルリア人はラテン系ではないことは分かっています。ローマ北方にはエトルリア人の都市が発達し、イタリアにネットワークを張り巡らせていました。ローマもそのネットワーク拠点の1つだったにすぎません。ギリシアからローマにアルファベットを伝えたのも彼らです。ローマからはエトルリア語の碑文も多数発見されており、エトルリア人が多く居住していたことも明らかです。

 彼らの宗教や言語は共通のものでしたが、ギリシア同様に統一国家を造ることは遂にありませんでした。集団としてのエトルリア人は完全に滅びてしまったため、今では彼らの遺した文字すら解読されていない状態です。しかし、当時にあってはローマよりも強大な勢力でした。

 エトルリア人の勢力の強さのの現れは、ローマの次の王にエトルリア系のタルクィニウスが就いたことからも明らかでしょう。

 タルクィニウスは元の名前をルクモと言い、コリント出身の余所者でした。彼はエトルリア人の町タルクィーニア名門出のタナクイラと恋に落ち、結ばれます。

 4代目の王マルキウスの時代、1組の夫婦がエトルリア人の町からローマへやってきた時のことです。空から舞い降りたワシが帽子を奪い、驚いているうちに再び舞い降りて今度は帽子を載せる、という出来事が起こります。妻は夫に対し、自らの力で国のトップに立ち、栄光を永遠のものにする予兆であると告げます。

 男はコリントからやってきたルクモ、女はエトルリア人でタルクィーニア名門出のタナクイラ。故郷の町の名前に因んだ名を持つところを見ると、相当の名門か、出身地を名前にしてしまったか、どちらかでしょう。私は勝手に後者だと思っています。

 タルクィーニアというエトルリア人の町があったことは歴史的な事実です。また、エトルリア人がコリントと貿易を行っていたことも証拠があることですので、こうしたカップルの存在は不思議なことではありません。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ローマ1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月15日

ローマ 建国神話10 ローマ王タルクィニウス、陰謀で即位し陰謀で殺される

ルクモはローマに腰を落ち着けると、ルキウス・タルクィニウスと名を改めます。伝説では、賢く寛大であるとの評判が広まったことでマルキウス王の知遇を得ることになります。王はタルクィニウスを2人の息子の後見人に指名するほどの厚遇を示しました。

しかし、余所者が少しばかり賢く寛大だからと言って、王がこれほどまでに権力中枢に近寄せるものでしょうか。むしろ、当時強力だったエトルリアが発展途上のローマへ有力者を送り込み、ローマは力関係からタルクィニウスの専横を排除できなかったと見るのが自然ではないでしょうか。こう考えると、マルキウス死後に起こることがすんなり飲み込めるように思います。

すなわち、マルキウスが死ぬと、タルクィニウスは王の2人の子へ狩りに行くことを勧めます。王子2人が町を離れるや否や、タルクィニウスは王に立候補してしまいます。王子2人は呆気無く権力から遠ざけられてしまいました。もっとも、これまで見てきた通り、ローマの王位は世襲制ではありませんから、元々彼ら2人が王位継承権を持つかといえば否となります。むしろ、今度はサビニ人の王を戴くはずの順番でしたから、割りを食ったのはサビニ人かも知れません。

王位に就くまでの流れには随分と怪しいところのあるタルクィニウスですが、ローマが世界帝国へのし上がるに当たって重要となる施策を行います。まず、騎兵を倍増させる軍制改革を行ったことが挙げられるでしょう。そして、騎兵を駆使してエトルリア人、サビニ人と戦い、勝利を得ます。エトルリア人出身の王がエトルリアと戦うのは不思議と思われるかも知れませんが、エトルリアはギリシア同様に単一国家を造りませんでしたから、アテナイとスパルタが戦ったような理解をしておけば良いでしょう。

また、怪しげな方法で王になったことから、その権力基盤は盤石とは言えないこともよく理解していました。そこで元老院の定数を2倍として支持基盤を得ます。政治的機関に多数の貴族を集結させたことは、国家の代表機関としての性格を濃くすることにも繋がりました。思わぬ副作用です。

タルクィニウスの成功を快く思わない者もいました。前王の遺児2人です。彼らは簒奪と言っても良いタルクィニウスのやり方に反発し、王の暗殺を図ります。

運命の日、王子たちに雇われた2人の暗殺者は訴訟を起こし、1人が申し立てを行う間にもう1人が王を斧で殺害しました。王妃は王の死を隠し、王が執務を取れない間の代理と言ってセルウィウス・トゥリウスという息子のように目をかけていた人物を事実上のトップに据えます。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ローマ1 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村