2016年03月01日

アレクサンドロス大王 巨星墜つ1 アレクサンドロス3世の急死

 この頃、ようやくアレクサンドロス3世とロクサネの間に世継ぎとなる男児が生まれ、アレクサンドロスと名付けられます。しかし、後世に生きる私たちには、時は既に遅かったとしか思えません。アレクサンドロス4世は、父が早世したために、偉大な王の子に似つかわしくない悲惨な最期を遂げることになります。そういえば、カエサルの息子のカエサリオンもまた非業の死を遂げますね。子にとっては巨大過ぎる功績を挙げた父親は良いことばかりではないのですね。

 さて、ここで少々薄気味悪い出来事がおこります。インドからついてきていたカラノスが病気で倒れるのです。助からないことを悟ったカラノスは、焼死したいので準備をしてくれと要求します。アレクサンドロス3世は止めさせようと説得するのですが、問答の末に折れ、要求通りに火葬用の塔を用意します。

 カラノスはもう自分で歩いて行くどころか、ウマに乗ることすらできない状態でした。他の者に運ばれて火葬用の塔に上り、そして焼け死にます。その直前、皆に別れを告げるのですが、アレクサンドロス3世にだけは、「あなたにはバビロンで別れを告げます」というのです。あたかも、翌年アレクサンドロス3世がバビロンで急死することを知っているかのように。

 同年末、アレクサンドロスはバビロンへ帰還します。

 ここでも不思議な出来事が起こります。ある日、アレクサンドロス3世が狩猟から帰ると見知らぬ男が王のマントを纏い王冠を冠って玉座に無言で座っていたのです。宦官たちは止めようとしたのですが、一度玉座に座った者を宦官の手で引きずり下ろすことはできないという決まりに縛られ、ただ嘆き、慌てるだけでした。相談を受けた予言者は口をそろえて処刑を勧めます。結局、男は処刑されました。

 ペルシアでは、不運が続いた時に、厄払いの儀式として狂人を一定期間王座につかせ、その後で処刑することが行われていたそうです。この事件も、アレクサンドロス3世に付きまとう暗い影を払うべく、ペルシアの占い師たちが行った儀式だったのかもしれません。だとすれば、一定期間王位に付けることをせず、直ちに処刑してしまったアレクサンドロス3世は、ペルシアの風習を知らなかったことになります。彼の東方路線は表層を取り入れたに過ぎなかった証拠かもしれません。

 アレクサンドロス3世はギリシアの風習を占領地に押し付けることはしませんでしたので、オリエントの伝統を尊重したとされます。確かに、表面的には弾圧があったわけではなく、アレクサンドロスも過去の文化を踏襲する姿勢を示してはいました。しかし、ペルシア王は毎年都市を巡遊して臣下との精神的紐帯を強めるよう振る舞ったことを踏襲しなかったように、理解も行動も表面的でした。

 アレクサンドロス3世ますます飲酒にのめり込み、王の判断力の低下を示すように予言者や占い師が王宮を闊歩するようになります。しかし、彼らはすぐ間近に迫ったアレクサンドロス3世の死を食い止める役には立ちませんでした。

 前323年5月、アレクサンドロス3世は酒宴の後で、ヘタイロイの1人メディオスに呼び止められ、無礼講に加わるよう勧められます。受け入れたアレクサンドロス3世は、2日に渡って酒宴に参加した後、発熱で倒れます。その後の経過を簡単にまとめましょう。

5/29、発熱のため浴室で就寝。

5/30、入浴後に自室へ。さいころ遊び。夜に入浴し、晩餐。終夜熱が引かず。

5/31、床に入ったままネアルコスから航海の話を聞く。

6/1、熱が上がる。安眠できず。

6/2、更に熱が上がる。寝台を大浴槽の傍に移し、そこで就寝。

6/3、将官たちと人事についての相談。

6/4、高熱が続く。将官に宮殿の中庭で待機するよう命じる。歩兵中隊長らにはその外で徹夜するよう命令。

6/5、宮殿に移動し睡眠をとるが熱は下がらず。将官たちが入室するが言葉を発せず。

6/6、高熱続く。アレクサンドロス3世が死去したのではないかと兵士が騒ぐ。彼らは寝室へ押し入ってくる。アレクサンドロス3世は最期の力を振り絞り、頭を上げて挨拶に応える。

6/10、32歳で死去。


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2016年03月02日

アレクサンドロス大王 巨星墜つ2 帝国の行方 最強の者が後を継ぐべし

 死にゆくアレクサンドロス3世の枕頭には、プトレマイオスやセレウコス、ネアルコスらが集います。その最大の関心は後継者にありました。なにしろ、アレクサンドロス3世は即位の際に邪魔になる王族を粛清してしまっていたので、王家に残されているのは知的障害を抱えた兄と幼いアレクサンドロス4世だけです。どちらが名目上の君主となるとしても、実権はその下の人間が握ることになるわけですから、信じられないほど巨大な権力を手中に収める絶好の機会でもあるのです。

 誰が帝国を継ぐのか、という問いに、アレクサンドロス3世は「最強の者が」と応えます。それが具体的に誰かは告げられていませんが、指輪を与えられたペルディッカスである、とする意見が大勢を占めます。アレクサンドロス3世の帝国は、ペルディッカスたちを中心に争われていくことになりますが、それはもう少々後に触れることにしましょう。

 アレクサンドロス3世の急死については、マラリア、アルコール中毒による肝機能不全、発疹チフス、戦傷による胸膜炎、西ナイル熱等に加え、毒殺説も取り沙汰されています。

 マラリアだとしたら、熱が続いていることから最も危険な熱帯熱マラリアだったのでしょう。毒殺説は、発熱から死亡までの時間がかかっていることを考えますと少々無理があるかと思います。ただ、興味深い話もありますので、一応紹介しておきましょう。

 まず、ヘファイスティオンもアレクサンドロス3世も、宴会で度を外した飲酒の直後に高熱を出して死んでいます。物の本には、ストリキニーネによる毒殺だと同じ現象だと紹介していることもあります。

 しかし、ストリキニーネは苦味が非常に強く、経口投与すればまず露見してしまいます。ところが、面白いことにアリストテレスの友人で植物学者のテオフラストスがストリキニーネによる毒殺法の致死量と使用法を書き記している中で、「ストリキニーネの苦味を誤魔化す方法は、純粋なワインに混ぜることだ」としているのです。マケドニアがギリシアと違ってワインを薄めずに飲むことを考えあわせますと、適した暗殺方法かもしれないと思えてきます。

 毒殺説は多くの人の関心を誘ったのでしょう。毒薬を手配したのはアリストテレスという説まであります。アリストテレスは後見人にアンティパトロスを選んだということは既に紹介した通りです。

 アンティパトロスはアレクサンドロス3世の死の直前、失脚寸前になっています。アンティパトロスは王不在中のマケドニア統治を任されていましたが、アレクサンドロス3世の母オリュンピアスが政治に口を挟むことから、アンティパトロスとオリュンピアスの対立は徐々に深まります。2人はアレクサンドロス3世へ互いを謗る手紙を送りつけるようにまでなります。

 アンティパトロスの息子カッサンドロスはアレクサンドロス3世を訪れ、父の無罪を訴えようとするのですが、そこである敏感な問題で王の怒りを買います。即ち、跪拝礼を受けるアレクサンドロス3世の姿を滑稽だと笑い出したのです。アレクサンドロス3世は激怒、カッサンドロスの頭を何度も壁に打ち付ける挙に出ます。

 後々のことを考えれば、アレクサンドロス3世はカッサンドロスを処刑しておいた方が一族のためになったでしょう。その理由は、また後に書こうと思います。

 それが影響したわけでもないでしょうが、アレクサンドロス3世は、アンティパトロスをペルシアへ召し、マケドニアへは他の者を送ろうとします。この人事はアレクサンドロス3世の死によって取りやめとなりました。


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2016年03月03日

アレクサンドロス大王 巨星墜つ3 アレクサンドロス3世暗殺説

 推理小説風に言えば、アンティパトロスには主君を殺す動機があります。暗殺に使う毒はアリストテレスの助力を得ることもできます。アリストテレスが弟子アレクサンドロス3世の統治について聞き、アリストテレス「そのような支配者に進んで耐える者はいない」と嫌悪感を表した通り、彼は東方協調路線に批判的でしたから、こうした政治的な思惑も働いたかもしれません。毒はラクダの蹄でできた容器に入れて運ばれたとされます。

 この筋書きが正しいなら、当然アレクサンドロス3世を宴会に誘ったメディオスもグルです。

 もっとも、ストリキニーネの毒性を考えますと、ヘファイスティオンの死にはこの毒薬が使われた可能性もゼロではないでしょうが、アレクサンドロス3世に使われたとは思えません。急死した有名人に付き物の作り話とするのが正しいように思えます。

 アレクサンドロス3世が早逝していなければどうなっていたでしょうか?

 ヘファイスティオンの火葬用の塔は完成を見たことでしょう。フィリッポス2世のための壮大な墓所建設の計画もあったようですが、これはマケドニアの国庫を圧迫させたことでしょう。

 バビロンに凱旋したアレクサンドロス3世はバビロンで1,000隻の艦艇を建造させるのと並行して、アラビア半島沿岸を探索させています。アラビア征服を意図していたのは間違いがなさそうです。北アフリカ全域の支配権を確立し、最終的には大洋を超えてアレクサンドリアに戻ることを計画したとも言われます。あるいは、存在感を高めつつあったローマにも意識を向けていたそうです。

 最終的にマケドニアのファランクスはローマ兵の散会戦術に破れていますから、常勝のアレクサンドロス3世率いるマケドニア軍とローマの戦いは好カードに思えます。

 いずれにせよ、アレクサンドロス3世は1箇所に落ち着くことなく、東奔西走して戦い続けたように思えます。

 なにしろ、彼についての本を読んでも、大帝国を築いて、その国をどうしようという希望やら青写真が存在する感じを受けないのです。ペルシアを征服しても、総督制や王の道を通じた連絡網は保ち、かといってマケドニアの風習を押し付けるでもなく逆に自分がペルシア王のように振る舞います。服従は要求しましたが、奢侈にも好色にも興味はないように見えます。



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2016年03月04日

アレクサンドロス大王 巨星墜つ4 アレクサンドロスの帝国は一代で崩壊する

 アレクサンドロス3世が追い求めたのは、ただただ戦場での栄光に思えてなりません。『アレクサンドロス東征記』の終わり近くで、アリアノスはアレクサンドロス3世の野望について思うことをこう記しています。

 私自身としてはアレクサンドロスが、いったどんな構想をいだいていたのか、確実なところは提示できないし、といって私なりに想像をたくましてみる気持ちもない。ただ私は次のことだけは、はっきり断言してよいと思う。それはアレクサンドロスの目ざしたところが、決して並みの卑小なものではなかったということ、たとえヨーロッパをアジアに併せようと、ブレッタノイ人の島々(ブリテン諸島)をヨーロッパに加えようと、彼は自分がそれまでに征服獲得したものだけで能事終われリとばかり、そこに腰を落ちつけてしまうことはせず、つねに未知の土地をさらに遠くへと求めてやまなかったということだ。たとえ他に競いあう相手がなくとも、彼はそれでも己自身を相手として勝負したのである。


 帝国がアレクサンドロス3世ただ1代で終わったのも頷けようというものです。

 アレクサンドロス3世の遺体は防腐処理がなされ、マケドニアへの移送が開始されるのですが、途中でエジプト総督となったプトレマイオスが奪い、エジプトへ運んでしまいます。葬儀を取り仕切る者が後を継ぐのは広く見られますから、遺体管理を巡る争いは直ちに大王死後の権力争いでもあるわけです。

 故人の希望という点では、アレクサンドロス3世本人はエジプトのシワに葬って欲しいと言っていたのですが、遺体はまずメンフィスに、次いでアレクサンドリアへ移されます。遺体は暫く祀られていましたが、やがて失われ、今でも発見されていません。

 家族について述べますと、ダレイオスの娘でアレクサンドロス3世が娶ったスタテイラはロクサネによって殺されます。そのロクサネも、前313年に権力争いの果てに息子と共に殺されます。バルシネとその子ヘラクレスもまたカッサンドロスの命で殺され、アレクサンドロス3世の血統は途絶えました。皮肉なことに、マケドニアの名を世界に広めた男は、自らの血統は残せなかったことになります。

 ダレイオス3世の母シシュガンビスは、自分や孫娘を丁寧に扱ってくれるアレクサンドロス3世を溺愛するようになっていました。彼女はアレクサンドロス3世の死を聞くと、自室に閉じこもり、悲しみのうちに死を遂げます。

 大雑把に言えば、帝国はアンティパトロスのマケドニア、プトレマイオスのエジプト、セレウコスのシリアにつながっていきます。そして、いずれもローマに飲み込まれていきます。

 このあたりの流れは、もう少々詳しく見ていくことにしようと思いますが、ひとまずアレクサンドロス3世についてはここで一旦終わりにしようと思います。



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2016年03月06日

ブックガイド29 アレクサンドロス3世の生涯

 予約投稿していた記事が切れていることに気がついたのは今日でした。楽しみにされていた方(いらっしゃるのでしょうか^^;)、申し訳ありません。

アレクサンドロスの征服と神話 (興亡の世界史) -
アレクサンドロスの征服と神話 (興亡の世界史) -

 アレクサンドロス3世が僅か1代で大帝国を築いたこと、彼の帝国を継承したものがアレクサンドロス3世とは血縁関係に無かったことから、彼を偉大なリーダーとしてその業績を引き継ぐのは自分だと後継者たちが政治的利用を図ったことから、アレクサンドロス3世はあっという間に伝説の人物となりました。

 アレクサンドロス3世について知るためには、同時代の記録が散逸してしまっていることから、伝説が少なからず入り込んでいるローマ時代の記録を漁らなければなりません。畢竟、その正確な姿を知ることは不可能となっています。

 こちらの本は、文献学等の力を駆使して伝説を極力排しながらアレクサンドロス3世の実情に迫ろうとしています。数少ない日本のアレクサンドロス3世専門家ということもあり、読みやすく史実を知ることができる良い機会です。



アレクサンドロス大王―「世界征服者」の虚像と実像 (講談社選書メチエ) -
アレクサンドロス大王―「世界征服者」の虚像と実像 (講談社選書メチエ) -

 こちらも上で紹介したのと同じ著者によるもので、その分、重なるところは多くあります。ただ、対ペルシア3大会戦である、グラニコス川の戦い、イッソスの戦い、ガウガメラの戦いについては前述書より詳しく書かれています。

 戦争に明け暮れ、勝利によって歴史に名を刻みこんだアレクサンドロス3世について知るためには、こうした戦いの記録を追いかけることが必要となるでしょう。実際、戦いぶりに彼の性格が色濃く反映されています。

 アレクサンドロス3世の生涯を一通り知った後で、会戦の模様を詳しく知りたい方にはうってつけでしょう。


王宮炎上―アレクサンドロス大王とペルセポリス (歴史文化ライブラリー) -
王宮炎上―アレクサンドロス大王とペルセポリス (歴史文化ライブラリー) -

 上述の2冊と同じく、アレクサンドロス3世を専門に研究している森谷公俊帝京大学文学部史学科教授の手になるものです。

 本書が焦点を当てているのは、タイトル通りペルセポリスを焼き尽くした事件です。当時ペルセポリスはマケドニアの占領下にありました。しかも、占領直後ではなく、占領に対する不満が爆発するような状況でもありませんでした。ペルセポリスを滅ぼすことはデメリットこそあれど、メリットは考えられません。だからこそ謎なのです。

 本書は発掘記録から明らかになった廃都ペルセポリスの姿から、炎上がなぜ、どのように起こったのかに迫っています。

 また、暗愚とされることの多いペルシアの最後の王、ダレイオス3世とはどのような人物だったのかにも迫っており、神話や伝説を排したアレクサンドロス3世の姿を知る一助となるのは間違いないでしょう。

 一方で、その性格上、アレクサンドロス3世の生涯の流れを知ることは不可能です。アレクサンドロス3世についてある程度の知識があるかた向けの本です。


大遠征アレキサンダーの野望―ギリシャからアジアへの旅 (Newton mook―Visual science series) -
大遠征アレキサンダーの野望―ギリシャからアジアへの旅 (Newton mook―Visual science series) -

 アレクサンドロス3世が辿った道のりは、マケドニアからインドに至る長大なものでした。

 著者はアレクサンドロス3世の辿った道を旅しながら、アレクサンドロス3世の遠征を追いかけてします。写真も豊富なので、読者は自分もアレクサンドロス3世の通った道がどのようなものだったのかを想像しながら読み進めることが出来ます。

 特に、戦場跡の写真を見ますと、この場所であの伝説の会戦が行われたのだと思って感慨深いものがあります。

 こちらも、その性格上、入門書というわけではありませんので、アレクサンドロス3世について一通りの流れを把握した後、更に興味があるなら読んでおくと理解が深まるように思います。
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