2016年01月01日

古代ギリシアの科学哲学 アリストテレス1 アリストテレスのアカデメイア時代

 プラトンの弟子のうち、最も有名なのがアリストテレスでしょう。彼は性格も考え方もプラトンとは異なっております。イデア論も、動きが説明できない等の理由で否定したほどです。このアリストテレスも大変に興味深い人物ですので、少々詳しく触れましょう。

 古代ギリシアを代表する碩学アリストテレスは、前384年(または前385年)にイオニア系の植民都市スタゲイロスで生まれました。スタゲイロスはエーゲ海北西部にあるギリシア系の植民都市ではありましたが、ギリシア系の都市が相次ぐ戦争で力を失う中で徐々に力を増すマケドニアの支配下にありました。アリストテレスの父ニコマコスはマケドニア王アミュンタスの侍医を務めていたそうですから、かなりの名門出身と言えるでしょう。

 アリストテレスは幼少期をマケドニア王の近くで過ごしていますから、年の近い王子フィリッポス2世(アリストテレスより2歳年長)と接したこともあったかもしれません。この時に知遇を得ていたことが後のアリストテレスの人生に大きな影響を与えたかもしれないと考えると楽しくなります。

 ところが、彼の人生は順風満帆には進みません。若くして父を失い、次いで母も失います。両親を失ったアリストテレスには、義兄のプロクセノスが後見人として付きましたので、彼はマケドニアを辞して小アジアに渡ります。

 プロクセノスはアリストテレスを知の最先端を切り開いていたアテナイへと留学させます。お伽話にや現実社会で継子への虐待が見られるように、実子ではない子供に扶養者は辛く当たることが多いことを考えますと、アリストテレスは幸運の持ち主だったと言えるでしょう。

 こうしてアリストテレスはプラトンの門下となります。まさにこの時、プラトンはシラクサのディオニュシオスに哲人政治の素晴らしさを説いたものの全く相手にされることが無かったという、徒労に終わった旅の最中でした。この時は帰国して学園の運営に戻ります。

 プラトンは勉学に励むアリストテレスを評して、「クセノクラテスには鞭が必要であるが、アリストテレスには手綱が必要だ」と語ったと伝えられます。一方で、学園におけるアリストテレスの評価は必ずしも芳しいものではなかったとも伝えられます。実態を知ることは不可能ですが、後世の私達からすれば、大学者アリストテレスは他を圧する存在であったように思えます。

 アカデメイアにおける最後の10年間には、最も重要な教授として後進を導いたようです。この学究生活はプラトンの死によって幕を下ろすことになりました。アカデメイアはプラトンの甥で数理哲学者のスペウシッポスが引き継ぎ存続しますが、アリストテレスは学友とともにアテナイを去り、アッソスへ移ります。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代ギリシアの科学哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月02日

古代ギリシアの科学哲学 アリストテレス2 関係者の死によって翻弄されるアリストテレス

 アッソスには解放奴隷出身で、プラトンの学友でもあったヘルメイアスが僭主として君臨していました。ヘルメイアスはプラトンの理想を現実に移すことや、ペルシアに対抗してギリシア文化を保とうとした人物です。それを考えると、アリストテレスたちは分校を作りに行ったのかもしれません。

 アリストテレスはここでも研究生活を送りました。彼の研究対象となった海棲生物、魚類、貝類はアッソス近辺で見られるものとのことですから、とりわけ生物学の研究に励んだことでしょう。

 ヘルメイアスの養女ピュティアスを娶って幸せな生活を送るアリストテレスですが、彼女は結婚後数年で亡くなりました。妻の死から数年経った後、彼は内縁の妻としてヘルピュリスという女性と親しくなり、一子を設けます。その子はニコマコスと名付けられ、後には亡父の論文を集め、今日『ニコマコス倫理学』として知られる形に纏めます。

 アッソスでの生活もまた、他の人物の死によって終わりを告げます。移住から3年後の前345年、僭主ヘルメイアスがペルシア王アルタクセルクセス3世の放った刺客に暗殺されたのです。

 アリストテレスは妻を連れてアッソスを離れ、アッソスの対岸にあったレスボス島のポリスミュティレーネに移ります。ここの生活もまた長くは続きませんでした。世界トップクラスの大学者がすぐ近くにいることを奇貨としたのが、マケドニアの王となっていたフィリッポス2世です。

 当時のマケドニアは、第3次神聖戦争に介入して勝利を収めて意気上がる状況にありました。フィリッポス2世は、14歳になる王子アレクサンドロスの教育係としてアリストテレスを雇ったのです。こうして、前342年から前336年までの7年間、アリストテレスは王子の教育係としてマケドニアの首都からやや離れたミエザに滞在しました。

 フィリッポス2世の王子時代から、王子の教育には同年代の貴族の子も共に学ぶようになっていました。彼らは王との個人的な付き合いを通して国の中核を占めるようになっていきます。アレクサンドロスと共に学んだのは、アレクサンドロスの無二の親友となったヘファイスティオンや後にエジプトを支配することになるプトレマイオス、書記官となるエウメネスら錚々たる人物が顔を揃えていました。彼らはアレクサンドロスの東征において中心となって活躍することになります。

 アレクサンドロス3世は「生を受けたのはフィリッポス2世からだが、高貴に生きることはアリストテレスから学んだ」と語るほど、師を尊敬していたとも言われます。遠征に赴いた先からも、アリストテレスへ珍奇なものを送りつづけたように、彼らの交流はアレクサンドロスが死ぬまで続くことになります。ただ、どのような人間関係も複雑であるのと同じように、彼らの関係も複雑でした。

 前336年、フィリッポス2世は暗殺され、王子アレクサンドロス3世が即位したのをきっかけに、アリストテレスはマケドニアを辞してアテナイへと戻ります。当時のアテナイはマケドニアの支配下にありました。アテナイの総督は、フィリッポス2世の側近アンティパトロスです。

 アリストテレスは己の遺言執行者にこのアンティパトロスを指名していますから、アンティパトロスの下での保護はしっかりしていたものと考えてよいでしょう。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代ギリシアの科学哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月03日

古代ギリシアの科学哲学 アリストテレス3 アテナイ時代とアレクサンドロス3世死後の逃亡時代

 当時のアカデメイアはスペウシッポスが既に死去していたため、アリストテレスと共にアテナイを去ったクセノクラテスが学頭となっていました。それほどの仲ですから、アカデメイアに戻れば重用されたのは間違いないでしょう。アリストテレスはしかし、アカデメイアへは戻りませんでした。彼はリュケイオンにアレクサンドロス3世からの支援を下に学園を作ったのです。

 なぜアカデメイアへ戻らなかったのかは定かではありません。しかし、プラトンとアリストテレスは思想がかなり異なります。戻ってプラトン流の教え方を強いられるのを嫌ったのでしょうか。

 アリストテレスは散歩道を歩きながら議論したため、彼らは逍遙学派と呼ばれました。アレクサンドロス3世の援助は大変なものだったようで、設備はかなり整っていたようです。図書館や博物館が併設された学園とのことですから、現在の大学に劣らないと言えるでしょう。後にアレクサンドリアに建てられる名高い図書館とムセイオンは、このリュケイオンに倣って作られることになります。

 アリストテレスは話術には長けていなかったらしく、声が小さく言葉がもつれがちだったそうです。そのため、授業のために原稿を準備していたそうで、これが今日残る彼の資料となっていきました。

 前323年、その生活も終わりを告げます。端緒となったのは彼のパトロンでもあったアレクサンドロス3世の急死です。アテナイはマケドニアの支配を受けていは居ましたが、決してその状態に満足してはいません。アレクサンドロス3世の死は反マケドニア派には千載一遇のチャンスに見えたのです。反マケドニアの機運が高まる中、アレクサンドロス3世の支援を受けていたアリストテレスもまた亡命に追いやられました。直接のきっかけは?神の罪で訴えられそうになったことです。アリストテレスは裁判を待たずにアテナイを去り、母の母国であったエウボイア島へと移り住みます。既に胃を患っていたアリストテレスは翌322年に世を去ります。享年62歳でした。

 遺言には、妻のピュティアスについて、どこに埋葬しようとも彼女の遺言通り彼女の遺骨も共に葬るべしとし、存命だったヘルピュリスについてはその世話を、特に再婚を望むなら良い相手を娶せて欲しいとあったそうです。それを考えますと、女性関係は華やかさにこそ欠けますが、満足の行くものだったのでしょう。

 アリストテレスは万学の祖と讃えられるほど多くのことに興味を示しました。天文学、生物学、力学、神学、倫理学、等々。その知識欲の貪欲さと知的好奇心の広さ、深さは見習いたいものです。

 そんなわけで、少々彼が唱えたことに触れましょう。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代ギリシアの科学哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月04日

古代ギリシアの科学哲学 アリストテレス4 理神論の走り? アリストテレスの不動の動者

 『アリストテレス』からの孫引きになりますが、彼は運動について「自然とは運動と静止の原因が付帯的にではなく直接的、本来的に内蔵しているようなのもにおいて、そのものが運動したり静止したりする原因になっている何物かのことにほかならない」としている通り、運動に注目していました。

 彼は神の存在を否定はしませんでしたが、従来の神話に見られるような人格神としての考え方は否定し、自分は動かないまま他の者を動かす「不動の動者」と考えたようです。後にキリスト教で語られるようになる理神論に近い感じがしますね。未だに人格神という考え方は世界に蔓延していることを考えますと、アリストテレスの思想の先鋭さに驚かされます。

 といっても、アリストテレスも理性一辺倒ではなく、検証することが不可能な世界に入り込んでしまう面もあります。例えば人間の霊魂は栄養を司る植物的霊魂、運動を司る動物的霊魂、思索を司る理性的霊魂の3つからなるとする人間三分説を唱えています。勿論、これは実際には探求不可能なことです。霊魂など存在しないのですから。孔子の言う、「思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」に該当するでしょう。

 地上のものは全て土・水・空気・火からなり、天体は第五元素からできている、ともしています。天体が地上ではあり得ない円運動を行うことから、特別な元素が割り当てられたのです。また、天体は熱くならないが運動の摩擦が熱と光を生みだすと考えたそうです。今日の知識と照らし合わせると間違いではありますが、運動とその素材を結びつけて体系的な知を築こうとしたことは評価されてよいでしょう。

 天文学について、先行するエウドクソスは惑星の動きを説明するために天空上の環を複数想定し、他の天体とは回転する軸の角度が異なるため、動きが異なると想定しました。この考えで土星と木星に関しては惑星の動きを高い精度で説明できていましたが、火星と金星は説明できていませんでした。

 アリストテレスが修正モデルを考える。天球の数は47(議論あり)にも及ぶ。それすら、惑星の明るさが変わることの説明はできなかった。

 また、全ての運動は媒質の中で起こると考えました。速度は濃度に反比例すると思っていたので、真空はありえない(速度が無限大になる)ともしていたそうです。空気よりも水の方が物質は密に詰まっているわけですから、そこから類推すれば濃度が濃いほど抵抗により速度は遅くなると考えても良かったとは思います。慣性の法則が見いだされるのは遥か後の時代ですから仕方がないかもしれません。

 アリストテレスの時代には力学が存在しませんでした。そのため、彼もまたかなりの間違いを犯しています。最も有名な誤りは、重い物と軽い物では重い物が早く落ちるとしたことでしょう。空気抵抗を考えれば正しい観察結果ではありますが、思考実験だけでもこの考えは誤りであることを導くことができるのです。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代ギリシアの科学哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月05日

古代ギリシアの科学哲学 アリストテレス5 重いものほど速く落ちるとした物理学と自然発生説

 2つの鉄球があるとします。2つの球は同じ重さで、それぞれから1本の紐が出ています。紐同士を結わえた状態で2つの球を落とした時と、紐を結わえずに球を落とした場合、紐を結わえたという事実だけで落ちる速度が倍になるものでしょうか。あるいは、塔の上から球を落とすとします。塔の途中には刀が飛び出ていて、そこで紐を切断するとします。紐が切断された瞬間に球は落下速度を緩めるでしょうか。

 落下速度が質量に比例するという考えは、この通り、少しまじめに考えただけで破綻してしまうのです。

 勿論、思考実験だけではなく、実験を行ってさえいればより完璧だったでしょう。

 特に時間を割いたと見られるが生物学です。500種類を超える生物の記録を残したことに見られるように、多くの時間を割いたことが伺われます。解剖も研究の手段に用いていましたが、心臓が感覚の中心であるといった誤った主張も少なくありません。生物学についての最も有名な彼の誤りは、原始的な生物は親から生まれることもあるが、泥や他の生き物の死体から自然と生まれていくるという自然発生説を唱えたことでしょう。

 水を汲んで放置しておきますと、大量の微生物が蠢きだしますから、自然発生説も無理からぬ考えだとは思います。生命の種子の片割れたる精子(卵子は体内のため見えませんのでここでは精子のみ取り上げます)も顕微鏡でなければ見えないサイズですし。

 師の興味の広さを知るアレクサンドロス3世は、遠征先からギリシアでは見られない生物や物をアリストテレスへ送りますが、研究はされなかったようです。体系的な研究には向かない題材だったためか、はたまた遠征に同行した甥のカリステネスがアレクサンドロス3世の手で処刑された(後にアレクサンドロス3世のところで触れます)ために関係が悪化したためか、理由は不明です。

 アジアへの蔑視を隠さないアリストテレスは、自分とは逆にアジアの専制君主的な振る舞いに傾倒していくアレクサンドロス3世に対し、そのような支配は誰も望まないと、批判しています。こうしたことも影響したかもしれません。

 インド産の珍種はさておいて、鶏の発生については同日に生まれた卵を毎日1つずつ割って中身を確認することで、雛の成長する模様を記録しています。最初に形ができたのが心臓だったことから、上記の心臓中心説となったのでしょう。

 少なからぬ欠点はありますが、力学を創設し、多くの生物の生態について記録し、天文学や医学にも一方ならぬ興味を示したことを考えますと、アリストテレスの功績は欠点を遥かに凌駕していると思います。彼がもし現代に生きていたら、驚く程に広がった知の地平を、更に広げる偉大な人物になったのではないでしょうか。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 古代ギリシアの科学哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村