2015年12月01日

古代ギリシア ペルシア戦争後4 ペリクレスの台頭とアテナイの民主化

 戦後のアテナイでは、マラトンの戦いの立役者ミルティアデスの息子、キモンが台頭してきます。彼は父親から軍事的才能を引き継いだらしく、対ペルシア戦で連戦連勝します。また、伝説的な英雄テセウスの遺骨を発見してアテナイへ持ち帰ったことで、民衆の人気は最高潮に達します。

 彼の失脚は思わぬところからやってきます。前464年、スパルタを地震が襲います。歴史家のディオドロスが死者2万人にも及ぶと記した大災害です。空前の災害でスパルタが混乱に陥っているのを奇貨として、メッセニアで不満を募らせていた奴隷階級(ヘイロタイ)が蜂起します。スパルタはアテナイへ支援を要請しますが、民会は援軍派遣を渋ります。ところが、キモンは民会の反対を押し切って、重装歩兵4,000人とスパルタへ向かいます。

 この隙に、民主派のリーダーのエフィアルテスとペリクレスが、アテナイ権力の中心であるアレオパゴス議会を攻撃し、権限を他の評議会に移してしまいました。アレオパゴス議会とは、アルコンの経験者からなる組織です。アルコンが最高級の階層からしか選出されないことは書いた通りです。つまり、一部の貴族しか入ることを許されませんし、アレオパゴス会議が権力を持ち続けるなら民主化は進まないということにもなります。その是非は置くとして。

 これまで書いてきた通り、ギリシアでは4つに別れる階級のどこから出ているかによってなれる兵種が違いましたね。重装歩兵は第3階級までです。その不在時に、第4階級の力を使って政治体制を変えてしまったのですから、これはクーデターです。

 おまけに、援軍は予期せぬ出来事によって、何一つ得るものなく帰還を余儀なくされます。即ち、キモン率いるアテナイ兵の意気軒昂なところを見たスパルタは恐怖し、戦いに加わらせずにキモンを帰国させてしまったのです。民会の反対を押し切ってまでの行動は、完全に裏目に出ました。アテナイに戻ったキモンは陶片追放に遭ってしまうのです。

 キモンは後にアテナイがスパルタに敗北した後、呼び戻されてスパルタとの折衝役となって和平をまとめますが、かつての影響力は持たないまま死去することになります。

 さて、民主派リーダーのエフィアルテスは、その思想に沿った改革を行います。アレオパゴス議会から権力を奪い、民会へ移すことで第4階級の力を強めるのです。この急進的な措置は反対派からの恨みを買い、エフィアルテスは暗殺されてしまいます。エフィアルテス死後、ぺりクレスが民主派の指導者に就きます。アテナイの民主化には、このペリクレスの影響が大です。

 ペリクレスは前524乃至520年頃の生まれと考えられます。父はアテナイの貴族でしたが、母は別のポリス出身(どこのポリスカは諸説あります)でした。皮肉なことに、ペリクレスの改革後の時代なら、両親ともにアテナイ人ではなかったということで指導者は愚か、市民にすらなれなかった生まれです。

 アテナイにおける貴族は固定的なものではなく、財産に応じて決まったそうです。一般に、ウマを自分で持てるだけの資産を持っていれば貴族とされました。それには15エーカー程度の農地が必要とされたそうです。一般の市民のそれは4エーカー程度ということですので、庶民の4倍の財産があれば貴族になれたのですね。それなりに流動性が高かったと言えます。

 因みに、この頃は中流の家庭で2,3人の奴隷がいたそうです。先人の改革で市民は奴隷身分に落ちないことが定められていましたから、奴隷は全て外国人でした。奴隷の総数は10万人程度といわれます。家庭内においては、石臼挽きがかなり大きな仕事でした。コムギを挽く仕事が家庭内での重要な仕事なのは水車が広く使われるようになるまで続きます。


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2015年12月02日

古代ギリシア ペルシア戦争後5 異邦人で娼婦上がりの女性を妻とした異色の政治家ペリクレスの改革とクリントンにまつわるジョーク

 さて、ペリクレスはギリシア人の妻を離縁して他所のポリス出身の、一説に娼婦とも言われるアスパシアという女性と再婚し、周囲を驚かせました。というのも、アテナイでは結婚は子孫を残すためのもので、恋愛や性的な快楽は愛人が相手と相場が決まっていたからです。結婚時に女性の側から払われる持参金が経済的に重要でした。離婚も珍しくはありませんが、持参金の返済義務が課せられましたから、離婚に至るのはより良い家柄の娘を娶るためのもので、ペリクレスのように異国人の女性を娶るなど考えられもしないことだったのです。

 男性側は相手が人妻でさえなければ他所の女性と自由に恋愛できましたが、女性の姦通は問題視され、離婚の原因になったり行事への出席が認められなくなったりといったペナルティを課せられました。男女間の平等にはほど遠い社会です。

 なお、このアスパシア本人も女傑と呼ぶに相応しい存在です。彼女の家は知的サロンとでも言うべき存在となり、かのソクラテスも出入りしていました。ペリクレスの死後にはリシクレスという将軍と再婚し、彼を優れた政治家にしたとも言われます。

 彼女の話を見るとクリントン夫妻にまつわるジョークを思い出してしまいましたので、ついでに紹介しておきましょう。

 クリントン夫妻がドライブ中、あるガソリンスタンドでヒラリーがビルに「私、昔ここで働いているあの人に告白されたことがあるの」と告げました。「あの男と付き合っていたら、君は今頃ガソリンスタンドで一緒に働いてたんだな」とビルが茶化しますと、ヒラリーは「バカね、そうしたら今頃は彼が大統領になってたわ」と言った、というものです。

 女性で男は変わりますからね。

 アテナイでは、良家の女性は夫や家族以外の男性には顔を見せないとされていました。饗宴の場にも呼ばれないのが基本、娼婦は例外という扱いでしたので、女性は知的なサロンから排除されていたことが分かります。また、後見人無しに裁判の当事者にはなれませんでしたので、一人前扱いされていなかったことが分かります。。ただし、密告はできたそうですから、便利な駒扱いですね。一方で、浮気をしようものなら、公共の場に参加する資格を失いましたから、古代アテナイに女性として生まれるのはデメリットはあれど、メリットは無いように思えてしまいます。当時のギリシアと比べても更に女性の権利が認められていない社会があることは嘆かわしいことです。

 こうした男尊女卑の色が強いアテナイにおいて、愛する異邦人と添い遂げる決意をしたペリクレスは、それだけでも記録に留めて良いかもしれません。

 ペリクレスの改革で、議員は無報酬から給与が出るようになります。無報酬でも貴族は困ることはありませんが、庶民が民会に出るとその分だけ仕事ができなくなり、生活を圧迫します。そこでペリクレスは、議会出席者には給与を出すことにしました。手工業に従事するものの3分の1程度の給金だったとは言われますが、ゼロよりは遥かにマシですね。これによって、下級階層の人々がどんどん政治の世界に顔を出すようになります。

 民主主義が進んだ背景としては、サラミスの海戦で海軍として全市民が戦ったことが要因とも指摘されます。従来は武装に優れる上流階級の人々が戦場で最も活躍していましたが、今回の戦いでは最下層の市民もポリスを守るために変わらぬ活躍をしています。彼らがポリスの運営にも興味をもつのは不思議ではないでしょう。


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2015年12月03日

古代ギリシア ペルシア戦争後6 主要な職務さえ任期1年重任禁止、しかもくじ引きという行き過ぎた平等と反アテナイ機運の高まり

 しかし、そこから先は行き過ぎを感じさせます。

 平等を求め過ぎた結果、役人は任期1年で重任禁止となりました。仕事をされている方は良くご存じだと思いますが、たった1年ではとても大きなことは成し遂げることができません。当然、1年で結果を出そうと思えば、劇薬のように短期間では効果があっても長期的には利益が失われる方向に行くしかありません。

 適材適所という点からも疑問符が付きます。専門的な役割にしても、選任に当たってはくじ引きが用いられました。必然的に彼らの権威は低下します。一方で、経験や財産が重要視される将軍職は重任が可能でした。必然的に将軍の権威が高まっていくことになります。ペリクレスも将軍として長期間アテナイを指導することになります。

 有能な人物で長期政権を狙う人物は陶片追放で追い出し、役人の任期は1年ということから、後には長期的視野に欠ける人物が台頭してきます。それが後にアテナイを苦境に追い込むことになるのです。そう考えると、ペリクレスの改革はアテナイ繁栄をもたらすと同時に滅びの種も仕込んでいたと言えるでしょう。

 さて、議員に給料が支払われるのは良いとして、その財源は何だったのでしょうか?それはなんと、デロス同盟に拠出された各ポリスからの資金でした。

 当初、資金はデロス島のアポロン神殿に保管されてアテナイ人が管理する形態をとっていましたが、前454年には、ペルシアに対して反乱を起こしたエジプトを支援するための遠征が、ペルシアに鎮圧されて失敗に終わったことをきっかけに保管場所もアテナイへ移します。この年、デロス同盟に参加するポリスは200を超えていましたから、かなりの資金が集まっていたことでしょう。ペリクレスはこの資金をアテナイ繁栄のために流用したのです。

 カネの流れた先としては、ペルシアに破壊されたパルテノン神殿の再建(再建後はデロス同盟の資金を収めるようになります)、3段櫂船の定期的な訓練と漕手への給与、更には無料で開放された観劇のため資金と多岐に渡ります。パルテノン神殿など、同盟に参加するポリスからすれば怨嗟の対象にしかならなかったのではないでしょうか。

 また、ペリクレスは軍事植民地の経営にも乗り出します。それまでの植民都市は建設されれば母市との関係はほぼ無くなるのが通例でした。しかし、ペリクレスは第4階級の市民をアテナイ市民としての身分を保ったまま植民させたのです。反乱に備えて監視役の兵士もいたそうですから、軍事植民地と呼ばれるのも無理はありません。

 植民地を必要としたのは、第4階級の人口が増えたためでもあります。人口増に対抗するため、ペリクレスは両親ともにアテナイ市民でなければ子の市民権を認めないと制度を変えました。他のポリス出身者は市民権は認められないのに兵役義務と税金は課されたというのですから酷いものです。それでも、アテナイの繁栄は他のポリス出身者を惹きつけ、多くの他ポリス出身者がアテナイで生活を続けました

 このようにデロス同盟は反ペルシア連合としての性格から、アテナイの覇権を継続するためのものへと性格を変えていきました。、アテナイ型民主主義の導入を強行したこともその現れでしょう。当然のことに他のポリスからは反発が起こります。

 不満を抱いたポリスは同盟から離脱を図りますが、アテナイはこうしたポリスを攻撃し、離脱を禁じます。最初の例はナクソスが起こした反乱で、前468年のことです。その後もタソス、アイギナ、エウボイア、サモス、ビザンディオンと、数年に一度は反乱が起こります。不満の強さが窺えますね。

 エウボイアと言えば、ペルシア戦争で陸のテルモピュライと海のアルテミシオンを防衛ラインに設定した、このアルテミシオンがエウボイア島の北に位置します。前446年に起こったエウボイア島の反乱の際にはスパルタもアテナイを攻撃します。これは多額の賄賂によってスパルタが撤退することで難を逃れました。エウボイアでは人々が追放され、アテナイの植民地になっていますから、また逆のことが言えるでしょう。これを機にアテナイとスパルタ間では30年間の和約が結ばれるのですが、僅か15年で破綻を迎えます。


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2015年12月04日

古代ギリシア ペロポネソス戦争1 デロス同盟とペロポネソス同盟、遂に衝突

 ギリシア社会の大国スパルタとアテナイが直接戦火を交えることで和約は破綻します。それこそ前431年から前404年にかけて起こったペロポネソス戦争です。

 ペロポネソス戦争の原因は色々と取り沙汰されていますが、最大の理由は従軍したトゥキディデスの指摘する、アテナイの強大化に恐れをなしたスパルタが立ち上がったとする考えに反対する積極的な理由は見当たらないでしょう。デロス同盟率いるアテナイが強大化し、スパルタの力も強くなれば、利害が衝突するのは当然です。

 先に書いた通り、デロス同盟はアテナイの覇権を支えるためのものに変質していました。スパルタは、アテナイからの解放を訴え、多くのポリスから支持を集めます。

 ペリクレスは演説で「自由こそ幸福であり、勇気こそ自由であると覚悟を決めて、戦争の危険の前にためらってはならない」と述べたそうです。名言だとは思うのですが、アテナイの圧政から自由を求めて戦う人々を考えると、他のポリスからも自由を奪ってはいけなかったのでは、と思ってしまいます。特に、ペルシア戦争でペルシアに断固対抗する理由として自由を守るためと高らかに謳いあげていたことを考えますと、この流れは極めつけの皮肉と感じられます。

 30年近くも戦い続けたペロポネソス戦争のきっかけとなったのは、エピダムノスというポリスで起こった混乱でした。内紛と他ポリスとの抗争に嫌気のさしたエピダムノスの人が、母市のケルキュラに援助を求めます。ケルキュラは何の助けもしなかったのに、コリントスがエピダムノス救援に乗り出すと不快を露わにし、エピダムノスへ攻め込み、陥落させてしまいます。だったら最初から自分たちの手で混乱を収拾すればよかったのに。

 ケルキュラは、コリントスからの復讐を恐れてアテナイに泣きつきます。アテナイはスパルタ率いるペロポネソス同盟と対抗する際に有利になるだろうとケルキュラ支援を決めました。こうしてアテナイとコリントスが戦うことになり、そこから争いは拡大していきます。第1次世界大戦がずるずると多くの国を巻き込んで拡大していったことに似ていますね。

 最終的に、アテナイのペロポネソスへの侵略に対抗するべく、ペロポネソス同盟はアテナイとの戦争を議決します。前432年のことでした。こうしてペロポネソス戦争が始まります。

 この戦争で特記すべきは、騎兵が使われ始めたことでしょうか。

 前5世紀以前の南ギリシアでは騎兵隊の記録は無いそうです。北にあるテッサリアでは使われていたそうですが、南ではそれだけのウマを確保できなかったのでしょう。ペルシア戦争においてはアテナイも弓騎兵を使った記録がありますが、兵士の多くはスキタイ人の傭兵でした。

 それが、ペロポネソス戦争ではギリシアの兵科として現れ始めるのです。騎兵は胴鎧、腿、左腕、兜。馬にも顔と胸を守る防具で身を固めました。こうして、ファランクスに騎兵を加えた兵力が中心となっていきます。後のアレクサンドロスの戦術につながっていくわけですね。


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2015年12月05日

古代ギリシア ペロポネソス戦争2 籠城するアテナイで疫病が蔓延、ペリクレスも病死する

 さて、スパルタはアッティカへ侵入します。

 スパルタの動きに対して、アテナイはペリクレスの指導のもとで精強で知られるスパルタ陸軍との直接対決を避け、海軍にペロポネソスを衝かせる作戦をとります。アテナイは食料を輸入していましたから、アッティカを荒らされても平気です。しかし、スパルタは周辺での食料生産が全てですから、海路ペロポネソス半島へ渡り、後方を撹乱するのは作戦としては実に見事なものでした。

 ここまでは。

 アテナイには、アッティカから多くの人が逃げ込んできました。衛生状態が悪く、恐らくは栄養事情も悪化していたことでしょう。そうした人々が密集して暮らすとなると、疫病が流行らない方が不思議です。

 籠城2年目、アテナイで疫病が発生します。アテナイ市民の3分の1が死んだとも言われる程ですから、大打撃です。ペリクレスの嫡子を2人もまた死亡し、ペリクレスは跡継ぎを失います。家系を大切にしたアテナイ人にとってこれは耐え難かったらしく、1人目の息子が死んだ時には気丈に耐えたペリクレスも、2人目の息子まで喪った時には大いに嘆いたと記録されています。家系を残すため、外国人である才色兼備のアスパシアとの間の子、小ペリクレスを市民に認めて欲しいと涙の演説を行い、彼の功績と度重なる悲劇に同情した市民の支持により認められます。自分で定めた法で自分の首を絞めた結果なのに、自分だけは法の適用を除外して欲しいとはかなり自分勝手な気がするのですが、如何でしょうか?

 疫病は猖獗を振るい、ペリクレスもまた病に冒されて死去します。栄光の時代はここで終わりと言って良いでしょう。

 トゥキディデスはこの疫病について急激に発病して高熱を伴い、喉が非常に渇くことに加え、舌と咽喉からの出血、皮膚の変色が後には膿疱から潰瘍へと変わると記録しています。あまりの犠牲者の多さに、アテナイでは人々が自暴自棄の生活を送るようになったそうです。例え裁判にかけられるようなことになったとしても、裁判まで生きていないだろう、と。

 この時にアテナイを襲った疫病については、「アテナイのペスト」と呼ばれることもありますけれども、現在ではペストではなく天然痘あるいは発疹チフスとされているそうです。

 ペリクレス本人は死亡しましたが、その作戦は見事な実を結びます。前425年、アテナイ海軍はペロポネソス半島西部の沖にある小島でスパルタ軍を包囲します。ここを拠点に反スパルタ活動を行われては溜まらないと、スパルタは和議を申し出ます。アテナイ有利に戦争を終らせる絶好のチャンスでしたが、誰もそうは考えませんでした。勝っている時の引き際こそが大切なのに、誰もそれを認識していなかったのです。あるいは、戦争の全体像を俯瞰し、終わりを見極める力が無かったのです。

 ペリクレス亡き後、アテナイで権力を握ったのはクレオンという人物です。彼は実績でその地位を得たのではなく、弁論術に頼ったのでした。

 クレオンの台頭を抑えたのはペリクレスですが、クレオンの台頭を許したのはペリクレスの改革でもあります。クレオンが頼った弁論術は、民衆に説得力があるようなことを言って自分を支持させるための技能です。ペリクレスの改革に拠って第4階級からも将軍が選出されるようになり、こうした弁論術だけに頼る人物が出てくるのです。

 なお、弁論術に頼ろうとする若者に説得力のありそうな議論方法を授けたのが詭弁家(ソフィスト)として知られる人々です。彼らは大金を取って、今で言うディベート技術を教え込みました。

 しかし、ディベートが強いだけの人間を、軍の指揮官にすべきでしょうか。あるいは、国家の指導者とするべきでしょうか。私はそうは思えません。

 一方で、説得力があるということは論理的であるという側面も持ちます。ギリシアで科学が育っていく1つの要因として、論争のためのテクニックを磨く術があったことは夙に指摘されています。


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