2018年06月22日

春秋戦国 蘇秦4 蘇秦の詐欺まがいの説得術により6国同盟は成るが、斉と魏が趙を攻撃して同盟は崩れる

 史記にはその時に振るった長広舌が載っておりますが、要するに、特産品や国土の広さ・守りやすさを強調し、軍の強さを褒め、仕上げに秦以外の国が組めば秦を圧倒できるのだから、まるで臣下のように秦に仕えることは無い、と言っています。韓において、大国に服属するより小国でもトップであるべきであるとして説いた言葉が「鶏口となるも牛後となるなかれ」というものです。そう煽られた場合、「長いものには巻かれろ」と返して冷静さを失わないようにしましょう。

 さて、諸国は蘇秦の口車に乗り、同盟を結んで秦に対抗します。同盟の立役者たる蘇秦は6カ国の宰相となります。そして車馬を連ねて故郷の洛陽に帰ると、周の顕王は道を掃き清めて蘇秦の一行を出迎えさせるました。かつて蘇秦を嘲った兄嫁らが平伏して、蘇秦に接します。

 蘇秦は「以前はあんなに威張っていたのに、どうして今はこんなに謙って接してくださるのかな」と皮肉ります。兄嫁は這いつくばったまま、「貴方の位が高く、豪奢だからです」と答えました。蘇秦は「貧乏だろうと金持ちだろうと私という人間に変わりはないというのに、親戚たちは富貴であれば尊敬し、貧しければ見下す。他人ならなおのこと。もし洛陽の近郊にちょっと広い畑でも持っていたら、俺は栄達を果たすことはなかっただろう」と嘆くと、親戚たちに大金を分け与えました。他にも、恩義のある相手には尽く礼をしたそうです。

 故郷から趙に戻った蘇秦を、粛公は武安君に封じました。そして、秦に6国の同盟を通知した結果、秦はそれから15年間もの間、東方へ攻撃を仕掛けなかった、と史記は記します。

 ところが、実際には破綻はあっという間にやってきます。

 同盟成立の翌年にあたる前332年、秦は斉と魏を唆して趙を攻撃させます。また、この年に燕の文侯が亡くなると、斉は喪につけこんで燕を攻撃し、10城を奪いました。こうして6カ国同盟は敢え無く崩れ去ったのです。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月21日

春秋戦国 蘇秦3 蘇秦は各国に商鞅の変法で強国となりつつある秦に対して諸国が同盟を結んで対抗すべきと説く

 蘇秦は燕の文公に、「秦が燕を攻撃してこないのは、間に趙があるからです。趙を越えて燕を攻撃しても補給線が伸び切って補給に苦しむ上に占領した土地を維持できません。一方、趙が燕を攻めようとすれば、補給線は短くて済み、占領した土地は直ちに自国の領土に組み込むことができます。それを考えれば、趙と同盟を結ぶに越したことはありません」と説き、信用されます。

 しかし、もし趙が全土統一を謀っていたのだとすると、七雄の中では最弱である燕を攻撃するのが最も理に適っていると考えることも可能です。その場合、秦と同盟を結び、趙が燕を攻めればその後背を襲ってもらう、としても良いわけです。必ずしも蘇秦の言葉に従うのが正しいわけではないはずなのですが、それを感じさせないところにタフネゴシエーターたる蘇秦の能力です。

 文公は蘇秦を趙の粛公に送り、同盟を申し入れます。とは言え、燕が謙って趙に同盟を求めるという体裁は取りません。

 蘇秦は「現在、山東の国々の中では趙こそが最強であり、秦が最も恐れる国も趙であります。その秦が趙を攻撃してこないのは、趙を攻撃している間に韓・魏に攻め込まれることを恐れているのです。その韓・魏と秦の間には山や河といった険阻な地がなく、秦は望むままに侵食ができます。もし彼らが秦を防ぐことができないと考えれば、必ずや秦の側に立つでしょう。そうすれば、秦は趙を攻めるのに、韓・魏という掣肘がなくなるため、趙は危機に瀕するでしょう。趙にとっては、秦以外の国々を糾合して秦に対抗することが最善です。6国の力を合わせれば秦を遥かに上回りますから、秦を破ることができます」と説きます。

 粛公は蘇秦の案に乗ることとし、他国と同盟を結ぶための使者として蘇秦を派遣します。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月20日

春秋戦国 蘇秦2 凋落した周の都洛陽では満足な仕事がなく、諸国を遊説するも失敗して自宅に帰り、必死に勉強して交渉術を身につける

 ところが、実際は張儀の方が蘇秦より先に活躍していたようなのです。

1973年に湖南省長沙市の馬王堆3号漢墓から発見された帛書『戦国縦横家書』によって、蘇秦が張儀より後に活動したことが判明した。秦が否定的に記号化された漢代の縦横家が、その開祖を秦に仕えた張儀とすることを憚り、『史記』に見えるような、蘇秦を張儀の兄弟子とする筋書きを創作したものであろう
(『概説中国史〈上〉古代‐中世』)

 そんなわけで、上記の逸話はどうやら事実ではないと考えて、2人の活躍を見ていくことにしましょう。

 蘇秦は洛陽の乗軒里(じょうけんり)出身です。周の力などとうに失われており、洛陽の地位は地方の小都市にまで転落したため、洛陽暮らしは楽ではなかったようです。『史記―中国古代の人びと (中公新書 (12))
史記―中国古代の人びと』から引用します。

 洛陽には独特の産業もなく、そのうえ国土も狭いので、洛陽の人びとは出稼ぎ商人になるのが普通であった。二割の利益がえられるなら行商人。仲買人になって、東は山東から西は魏まで出稼ぎにゆくのであった。戦国の半ばごろには、文化的中心であった洛陽の時代は遠く去ってしまって、新しい文化を吸収するには、東は斉、西は魏、南は楚に留学しなければならなかった。


 鬼谷に学んだという話の真偽は疑わしいのですが、交渉術を学んで諸国を説いて回ります。ところが、相手にされずに私財を使い果たして故郷に帰ることになります。兄弟の妻や自分の妻まで彼を愚かと罵る始末でした。曰く、「農業に励むか、商売で2割の利益を上げる、堅実な生き方をせずに口舌に一攫千金を賭けては貧乏になるのも当然だ」、ということです。さしずめ、現在でミュージシャン目指して働かない若者みたいな感じで見られたのでしょうか。

 一念発起して勉強に励みます。そして、今で言うところの交渉術を学ぶと、前333年に遊説にでます。最初に選んだのは、秦でした。ところが、秦では商鞅のことがあったばかりで、外国人への警戒が高まっていました。蘇秦も同様に端から相手にされません。蘇秦さんはしょんぼりしょんぼり燕に向かいます。

概説中国史〈上〉古代‐中世
概説中国史〈上〉古代‐中世

史記―中国古代の人びと (中公新書 (12))
史記―中国古代の人びと (中公新書 (12))


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月19日

春秋戦国 蘇秦1 蘇秦と張儀の関係 蘇秦は秦を警戒し、能力の高い張儀を秦に送り込む

  斉に攻め込んできた越王無彊(句践の6代後)に対し、斉は「本当の脅威は楚である」と説き、越は楚を攻撃します。楚の威王は逆に越を破り、無彊を戦死させました。かつての呉の領地は楚に編入され、越では有力者たちが分かれて相争います。越はこれで弱体化し、琅邪に遷都して斉の庇護を求めます。越はこれで戦国時代の主要プレーヤーの地位から転落し、やがてその地は楚に飲み込まれることになります。

 翌前333年、楚は趙、燕と共に斉を攻撃し、斉と魏の連合軍を徐州で打ち破ります。斉はたまらず趙、燕と和睦せざるを得ませんでした。

 同年には公孫衍が率いる秦軍が魏を攻撃、魏の竜賈を捕虜にして更に東へ向かおうとします。西は秦、東は斉が他に抜きん出ていたのが、斉が楚に敗れ秦が魏に勝つことで、秦の一強化が進みはじめました。

 こうした状況で、諸国が同盟を結んで秦に対抗する、という動きが出始めます。縦横家として有名な、蘇秦や張儀の活躍です。

 まず頭角を現したのは蘇秦で、後に張儀が活躍したとされます。蘇秦は秦以外の6カ国を束ねるだけではなく、十分な能力を持った人物に秦で力を持ってもらいたいと、張儀を送り込んだという、以下のような話があります。

 蘇秦と張儀は鬼谷子の下で学びます。このときから蘇秦は張儀には敵わないと思っていました。張儀は遊説に出るも失敗し、楚で困窮していました。蘇秦は落ちぶれた張儀を侮辱します。嘲りを受け、発奮した張儀は秦に向かいます。道中、たまたま一緒になった商人は張儀の言葉を聞いてすっかり才能に惚れ込み、旅費を負担してくれた上、秦王に目通りするルートまで開いてくれます。

 張儀は秦王に気に入られて地位と財を与えられます。恩人に礼を言おうとすると、その商人は「実は私は商人ではなく、蘇秦様に仕える従者でございます。蘇秦様は 秦が南北の同盟を破ろうとするのが心配で、張儀様なら秦の政治を自由にできるだろうとお考えになり、敢えて張儀様を怒らせ、私には張儀様の仕官をお手伝いさせるようお命じになりました。これまでのことは全て蘇秦様のご指示あってのことです」と、これまでのことを説明しました。張儀は蘇秦の掌の上で踊っていたことに気づき、蘇秦が生きている間はその妨げになることは無いと誓います。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月18日

春秋戦国 魏主と斉主の即位 魏と斉は互いに王と称することを認めあい、周の没落が決定的になる  魏の斉に対する陰謀

前334年、恵王と威王が薛(後漢末だと徐州)で会盟、互いに王号を名乗りました。魏は既に夏王を自称してはいました。権威を他国にも認めてもらおうと、魏は周に対して覇者と認めるよう迫ろうとしましたが、魏を警戒する韓の横槍で周は秦を覇者と認めていました。

 恵王は王を自称するに過ぎない現状がさぞ悔しかったのでしょう。どうしても他国とのつながりにおいても王号を用いたかった恵王は、斉と互いに王と呼び合うことにすることで、「自他ともに認める」王となったのでした。

 自称同士が傷を舐めあってるだけではないかとの見方もできるかも知れませんが、一方でこれは国際関係において堂々と王を名乗っても、誰からも掣肘を受けない(止める力を持つ者が存在しない)という現実を突き付けたことも意味していました。

しかし、この措置は両国の精神的な紐帯を生んだわけではありません。

 馬陵の戦い後、魏では斉に復讐の機運が高まります。魏は強国の地位を失ったのですから当然でしょう。互いに王と呼びあうようになっても、その雰囲気は変わりませんでした。魏の恵王は恵施という人物に全軍を挙げて斉を討ちたいがどうかと諮ります。恵施は、魏は敗れたばかりで兵力がないので、勝利は期待できないと伝えます。それどころか、意外な策を授けました。斉に臣従する、というものです。

 楚王もまた、覇権を握ることを望んでいました。魏が斉に臣下の礼を取れば、楚は怒り、斉の力を削ごうとすることでしょう。そうした状態で楚王を唆して斉を討たせれば、魏との戦いで疲弊した斉は楚に敗れる、と予言したのです。

 かくして、魏王が参朝するとの申し出が斉になされます。宰相の田嬰は魏の申し入れを受諾しました。張丑という人物は「楚王は戦争好きで名義にこだわります。魏が参朝したとなれば、楚との衝突は避けられません。先の戦いが無い状態で魏と結んで楚を討てば勝てたでしょうが、今の状態では楚に勝てません」と諌めますが、田嬰は聞き入れませんでした。

 恵施の読み通り、そして張丑の懸念通りに楚王は斉を敵国と睨むようになりました。その楚にチャンスが訪れます。魏と斉が互いに王号を唱えたまさにその年、斉に越が挑んだのです。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 春秋戦国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村