2018年02月22日

古代中国 周の成立2 出土品の文化レベルの高さは殷より周が劣る 殷周革命は文化破壊を伴ったのか?

 姓が羌に連なるということは、周は殷から見れば異なる文化圏に属する、異質な存在だったことを意味します。殷は農耕中心だったのに対し。周は遊牧民だったと見られるのです。

 彼らが岐山の麓へ移ってきたのは、文王の祖父にあたる亶父の時代です。戎狄の圧迫を避けて新たに作った町が周の都になりました。なお、岐阜県は織田信長はこの歴史に因み、岐阜(岐の阜(おか))と名付けたのが起源です。

 さて、牧野の戦いで殷を滅ぼして天下を得た周がまずやったことと言えば、殷の継承です。考えてみれば当たり前の話で、既に殷が他国を支配する体制を整えていたのですから、換骨奪胎するのが最も効率的なのです。また、殷は青銅器を独占していたことに見られるように、最先端のテクノロジーを保持していました。これを利用しないのは非合理でもあります。

 周は青銅器づくりの技術を引き継ぐと、殷と同じように青銅器を諸侯に贈りました。文字の独占もまた、周になっても変わりませんでした。周成立当初は文字が使われたのは大都市のみです。周王が諸侯に官職や物を賜与したことを記した銘文の大半が周の王都近くから出土する(『よみがえる文字と呪術の帝国』)ことから、文字の独占が分かるのです。

 全体としては殷の先進テクノロジーを引き継ぎはしましたが、どうやら殷崩壊に伴い、実際の技術を担う人が流出したためか、職人に払うべき対価が不十分だったためか、周は殷よりも出土品が少なくなっています。出てくるのも土器ばかりで、種類も限定されています。ローマ崩壊後にゲルマン人の支配した地域が文明的に大幅な後退をしていましたね。それと同じことが起こっていたのかもしれません。

 農耕中心だった殷 とは異なり、周は遊牧中心でしたから、単純にテクノロジーに対する理解が足りなかったのかもしれません。

 権力の相続についても、あるいは殷を受け継いだかもしれません。殷は初期から中期にかけては兄弟で順に王を継いでいましたが、殷末からは父子相続となっていました。周は父子相続を継承し、以後王朝は変わっても基本は父子相続となっています。


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2018年02月21日

古代中国 周の成立1 周の始祖・后稷の異常出生譚 異民族の羌出身(羌族からは後の馬超が生まれる)

 殷は滅亡しましたが、紂王の一族が滅ぼされたわけではありません。紂の腹違いの弟である微子開は、勝者たる周の武王によって殷の祭祀を引き継ぐためにと宋に封じられました。微子開は賢人で何度も紂を諌めたのですが、聞き入れられないために亡命していたため、紂王の暴虐からも戦乱からも逃れたとされます。武王が紂王を討った後、周に降伏しました。

 助けられたのは微子開だけではありません。紂の息子もまた、命を助けられました。しかも、どうやらそれなりに力を保持していたようなのです。

 周に話を移す前に、まずその起源から書くことにします。

 周の始祖は后稷で、彼にもまた異常出生譚があります。母の姜原が郊外に出かけた際、巨人の足跡を見つけます。どうした理由か、心引きつけられるままに足跡を踏むと、そのまま妊娠します。余りにも異常な状況で妊娠したために、畏れた彼女は生まれたばかりの后稷を狭い路地に棄ててしまいます。

 ところがウマやウシがその子を避けて通り生き延びます。次は山に捨てるのですが、大勢の人が集まるようになってこれも断念、更に溝に張った氷の上に棄てると鳥がやってきて温めました。度重なる異常な出来事に、彼女は赤ん坊を棄てるのを止め、育てるようになりました。こうした経緯がありますので、后稷は字を棄といいます。

 注目すべきは 姜原という名前です。 姓の「姜」はすなわち、「羌」を意味します。 少々ややこしいのですが、古代中国には姓と氏と名がありました。周代の姓は現代日本のものとは異なることに注意が必要です。姓は男性には付かず、女性の名前について出身氏族を示すものでした。斉は姜姓と言う場合の姜がそれに当たります。氏が比較的、現代日本における姓に近く、男性にも付いて姓から枝分かれした氏族集団を示します。春秋時代以降、姓の重要さが失われて氏に変わっていますので、春秋以降の中国史(例えば楚漢戦争や三国志)から入った場合、この関係を読み誤ります。


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2018年02月20日

古代中国 紂王4 殷の猜疑を買えば攻撃されることもあった、過酷な周辺諸国

 紂王を滅ぼした戦いのことは多少なりとも分かるようになりましたが、なぜ周が殷を攻撃したかまでは分かっていません。紂王が暴君とされたのは、周の武王が殷を滅ぼしたことを正当化するために過ぎません。儒教の論理では反逆は大罪ですから、周建国を正当化するには帝辛を悪逆無道の暗君にする必要があったのです。だからこそ、酒池肉林や炮烙の刑といった、酒色に溺れて残虐な暴君の姿が作られたわけです。

 殷周革命に至った詳細は分かっていません。しかし、少なくとも周は殷と通婚していたことは分かっています。周の遺跡から17,000点にも及ぶ甲骨が発見され、一部には文字が刻まれていたことから、文字も与えられていたほどの間柄であったのです。殷と周の関係は深く、甲骨文字が現れ始める武丁の時代には既に周侯の文字が見えるそうで、殷に従う有力な諸侯の1つでした。

 もっとも、『貝塚茂樹著作集〈第3巻〉殷周古代史の再構成 (1977年) - 』に「殷王朝は殷国のもっとも精強な近衛軍団である多子族を動員し、周の近隣の犬戎という遊牧民族の犬侯を手引として周侯国の根拠地に逆に入寇したことを卜った初期の卜辞がある」そうで、殷の猜疑や嫉妬を買うだけの財物を溜め込めば攻撃を受けることもあったようです。

 周が殷討伐に傾いた理由が十分過ぎるほど分かる気がします。

 『中国の歴史<増補改訂版> - 』(山本英史)は、「殷周革命の実態は、陝西を本拠とした周が殷の諸侯になることによってその文化を取り込んで発展し、軍事的にも強大な勢力になり、やがて殷を離反した諸侯の支持を受けて政権を奪取することに成功した過程と見るのが妥当である」と纏めています。

 同時代の史料について、西周甲骨文と呼ばれる、殷滅亡直前の周の甲骨文も出土しています。そこには文王、武王の名前も見えるため、彼らが実在の人物だったことは確実です。一方、太公望の名は周初期の記録には見られません。勿論、太公望という渾名だけではなく、彼の名前として伝わる呂尚やら姜子牙も見ることができません。一方で、殷の甲骨文には太公望が封じられた斉で占いをしたことが書かれています。ということは、斉は太公望が封じられて成立した国ではなく、元々は殷の勢力下であったことが分かります。

貝塚茂樹著作集〈第3巻〉殷周古代史の再構成 (1977年) -
貝塚茂樹著作集〈第3巻〉殷周古代史の再構成 (1977年) -

中国の歴史<増補改訂版> -
中国の歴史<増補改訂版> -

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2018年02月19日

古代中国 紂王3 殷周革命の最終決戦「牧野の戦い」 諸民族を糾合した周、わずか1日で殷を破り、紂王を自殺に追い込む

 酒池肉林にしても、祭祀の一環かもしれません。『尚書』には殷王の供える酒の臭いと肉の生臭さが天に達し、天がこれを怒って周に天命を革(=革命)めるよう命令を下したとあるほどですから。

 勿論、肉と酒が祭祀に相応しくないから国が滅んだわけではありません。理由は分かりませんが、紂王が東南の夷方へ遠征したのを絶好の機会と見た周が殷を攻撃、滅ぼしたのです。

 その時期については議論があります。その1つは前1046年に戦いがあり、前1045年に殷が滅亡したというものです。『国語』に収められた周の説話に、木星がうみへび座の胴体のあたりにあった年とあり、逆算するとこの年になるそうです。

 しかし、『よみがえる文字と呪術の帝国―古代殷周王朝の素顔』は新月から次の新月まで、地球の公転の関係で常に29.5日ではなく、また月と太陽が完全に同じ方向になるタイミングのズレから、新月から次の新月まで31日になるタイミングがあって、暦日に現れたそのタイミングが、前1023年だと一致すると唱えています。上掲書はかなり長い論考でその証明をしているので興味がある方はご覧いただきたいのですが、とりあえずここでは上掲書に従い、前1024年に周の武王が軍を起こし、翌前1023年に牧野の戦いで紂王を破った、としておきましょう。

 戦いがいつ起こったにせよ、牧野の戦いで敗北した紂王は火中に身を投じて自害を遂げたと伝えられます。

 牧野の戦いについて、同時代である前11世紀の青銅器に刻まれた銘文には「武王、商(殷)を征す。戦いは甲子の朝はじまり昏早く終わった」(『世界の歴史〈2〉中華文明の誕生』)とあるそうです。天下分け目の決戦は短期戦だったのですね。

 この際、庸、蜀、羌、髳、微、纑、彭、濮が周側に立って戦っています。とは言え、彼らについてはよく分かっていません。情報のある数少ない国が蜀です。

 蜀は現在の四川省にあたる場所で、三国志の劉備が拠って立った地域として有名ですね。蜀には古代から中原とは異なる文明が栄えていました。それが三星堆遺跡で、人面や獣面の青銅の仮面が多く見つかっています。殷の青銅器が儀礼用とみられる鼎や爵と呼ばれる酒器が中心であることと比べると大きな違いがあります。最大規模のものは高さ4mもある青銅の木で、9つの枝の先には花が咲き、鳥が止まるというものです。台座には龍かヘビがあしらってあるそうで、古代の技術でそれほどまでに巨大なオブジェクトを造るにはきっと気が遠くなるほど苦労があったことでしょう。

よみがえる文字と呪術の帝国―古代殷周王朝の素顔 (中公新書 (1593)) -
よみがえる文字と呪術の帝国―古代殷周王朝の素顔 (中公新書 (1593)) -

世界の歴史〈2〉中華文明の誕生 (中公文庫) -
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2018年02月18日

古代中国 紂王2 「紂」は謚号だが、謚号が生まれたのは春秋時代 政治にも軍事にも熱心だった帝辛

 ここまで、世に知られた紂王ではなく帝辛と呼んできたのは、少なくともこの段階で紂王と呼ぶのは相応しくないように思われるからです。まず、紂王は帝辛の死後に付けられた謚号であるためです。『教科書では読めない中国史―中国がよくわかる50の話 - 』からその意味を引用しますと、「「紂」とは諡で、「正義を踏みにじり、善を損なう」という意味をもつ」、甚だ悪い意味を与えられたものです。

 加えて、謚号は春秋時代にできたものなので、帝辛の同時代どころか、殷が滅んでから相当に時間が経った後にしか使われていないはずなのです。この紂という悪謚は儒教が成立した後に、儒教の価値観に基づいて付けられたものです。紂王の暴虐とされるものも、後世に付加されたものです。

 繰り返しになりますが、夏の桀王と殷の紂王エピソードは、容貌にも腕力にも優れる点、寵姫を溺愛して政治を疎かにする点、ライバルを一度は幽閉するが釈放する点と、物語の重要なポイントがことごとく一致しています。この2名を連ねた「夏桀殷紂」は暴君を指す言葉となりました。

 しかし、史料から読み取れる範囲では、帝辛は祭祀と政治が切り離せない時代に5種の祭祀を熱心に行っていたことが分かっています。この時代、先祖の霊、特に近親者の霊は祟るものだと思われていましたから、霊を祭祀で宥める必要がありました。祖先の祭祀について、後期は十干名と合う日に行われる定期的なものになっていました。熱心に祭祀を行うことは、国家安寧を図る手段だったわけです。

 軍事教練でもある狩猟へも頻繁に出かけていた記録があります。19代盤庚から30代帝辛は殷墟を首都としていたと考えられています(ただし、城址跡が見られないことから、宗教祭祀用の施設がある場所であって、王宮は存在しなかったとの説もあります)。因みに、殷王の田猟は殷墟を中心に半径20キロ以内でした。車のない時代に頻繁にそれだけの距離を移動するのはさぞ大変だったことでしょう。

 政治にも軍事にも熱心だったのですね。女色に溺れて政治を顧みなかった、とは考えられないようです。もっとも、どこぞの将軍様のように、軍事費に大量の資金を投入して国を貧困のどん底に叩き落とす素晴らしい指導者も居るのだから、祭祀と狩猟に熱心だからと言って良い王様だったとは言えないのではありますが。少なくとも、当時の記録には紂王による遠征の記事は見えても、圧政を布いた記録はないのです。

 それを考えると、帝辛を悪謚であることが明白な「紂王」という呼び方をするのは申し訳ない気がします。

教科書では読めない中国史―中国がよくわかる50の話 -
教科書では読めない中国史―中国がよくわかる50の話 -


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