2020年01月18日

新 王莽人事 金匱策書に基づいて、金匱策書をでっち上げた哀章や、美名というだけの王盛、王興が抜擢される

 さて、王莽は即位すると、早速人事を固めるのに合わせ、官制改革を行いました。特筆すべきは、哀章の金匱策書の符命を実現することを前提に改革が行われたことでしょう。

 新たな官制でトップとなったのは、4輔(太師、太傅、国師、国将)、3公(大司馬、大司徒、大司空)、4将(更始将軍、衛将軍、立国将軍、前将軍)です。

 このトップ人事が金匱策書に従って行われたのです。

 太師には王舜、太傅には平晏、国師には劉歆が任じられました。ここまでは良いでしょう。王舜は王莽の腹心で、玉璽回収を任された人物ですし、劉歆は学者として名高く王莽が招聘した人物です。また、平晏はこれまで触れていませんでしたが、父は丞相の平当で本人も尚書令や少府などを歴任してきた重鎮です。問題は、国将となった哀章です。

 哀章は金匱策書を発見した、という人物でしたね。もちろん、このようなものが自然にできあがるはずはなく、哀章がでっち上げたものです。讖緯説だけを出世の手段にするような輩が、いきなり国家の重鎮になってもまともな仕事などできません。放埒ぶりだけは群臣の中でも頭抜けていましたが、能力不足は明らかでした。しかし、王莽は自分が皇帝になれたのは哀章のでっちあげのお陰だったこともあり、哀章を罰すようようなことはありませんでした。

 金匱策書に基づいて、何の功績も無いのに抜擢されたのは、何も哀章ただ1人ではありません。哀章は、(厚かましくも自分の名前を加えた他は)基本的に王一族や政府高官の名前を記載していたのですが、例外として王という姓に良い響きの名前を加えた王盛、王興という名前がありました。

 これらの名前は王一族には無いものでした。そこで、王莽はこの名前を持つ下級官吏や庶民を探し出し、衛将軍、前将軍に就けたのです。どうやら、王莽の懐疑心は息子を殺すことにしか役に立たなかったようです。世界一役に立たない能力ではないでしょうか。



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2020年01月17日

新 簒奪に反対した女たち 王太后や王莽の娘で廃立された劉嬰の妻は漢の滅亡を喜ばず、鬱々と過ごすことになる

 漢王朝は悪政で命脈が尽きたわけではありませんが、幼帝が続いて大帝国を統治するだけの力を失っていましたから、平和裏に皇帝が変わるのであれば、それはそれで良いことだったのかも知れません。

 簒奪に最も激しく反対したのは、太后王政君です。彼女は詔制臨朝にあたっていたため、秦が滅んだ際に漢に伝えられたという伝国の玉璽を持っていました。日本で言うところの三種の神器に相当する、皇帝を継いだことを象徴する道具です。

 王莽は太后のもとへ側近の王舜を送り、玉璽の引き渡しを要求します。

 太后は「私達の一族は漢家の力で代々富貴になったのに、恩に報いずに国を奪おうとしている。このような最低な人間にはイヌやブタも寄り付かない。漢家の独り身の老婆を玉璽とともに葬ってほしかったが、それも叶わぬ」と激しく王莽を罵りました。そして、「私が老いて死んだ後、お前の兄弟たちは全て族滅するだろう」と罵ると、握りしめていた伝国の玉璽を投げつけました。この時、竜の角が欠損したと伝えられます。

 こうして抵抗虚しく玉璽は王莽の手に渡ったのでした。

 王莽は即位すると、太后に新室文母太皇太后なる称号を与え、元帝の廟を壊して造った宮殿に王太后を住まわせます。元帝といえば、太后が嫁いだ相手でしたね。王莽はこの宮殿で、王太后のために宴席を設けたのですが、王太后は「漢の宗廟が壊されている横で酒食を取ることはできない」と言って、楽しまずに宴席から離れました。

 簒奪を快く思わなかった王一族は、王太后ただ1人ではありません。王莽の娘で平帝に嫁いでいた王皇后も同じです。

 廃された劉嬰が定安公とされたことに伴い、王莽は娘の号を黄皇室主とかえ、再婚させようと考えます。皇太后の号のままでは釣り合う身分の者がいませんからね。そして立国将軍の孫建の息子の見舞いに着飾らせて赴かせましたが、彼女は立腹のあまり病を発してしまいます。ほぼ寝たきりで生活を送るようになった娘に王莽も何も言えず、彼女は一人で過ごすことになります。


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2020年01月16日

新 禅定 翟義の反乱を鎮圧した王莽は、次から次へと奇跡をでっち上げて帝位を奪う 中国初の禅定劇がここに成立

 同年12月、王邑、孫建らは反乱軍を破り、反乱を主導した翟義は磔にされ(生きたままだったのか、自殺後の死体だったのか、どちらとも解釈できる状況です)、劉信は軍を捨てて逃亡しました。王邑らの遠征軍はとって返して王級らと合流、趙明らの反乱軍を攻撃します。こちらもほどなくして鎮圧されました。

 なお、王邑は首謀者全員を生け捕りにすることができなかったことで、王莽から厳しい叱責を受けます。これが後になって新に暗い影を落とすことになります。

 反乱が短期間で片付くと、いよいよ王莽は最大の野望を叶えるべく、動き出します。

 斉の都の臨淄で亭長の辛当なる者が、天公の使いを名乗る老人が夢に現れ、「漢の火徳が衰えたので、安漢公が天子となるべし。この亭に新しくできている井戸がその証である」と告げ、事実翌朝には井戸ができていた、といったような吉兆とやらをでっちあげます。

 讖緯説が信じられていた当時にあって、阿諛追従の徒が行った露骨な迎合も、天が示した意思と考えられます。

 更に簒奪に決定的だったのは、哀章なる者が高祖廟に捧げた2つの銅匱です。1つは「天帝行璽、金匱図」、もう1つには「赤帝行匱、邦、皇帝の金策書を伝え予う」と表記されていました。これを金匱策書と呼び、前者は天帝が、後者は漢を興した劉邦が王莽に与えた符命であることを意味します。

 さらに、その匱の中には「王莽、真天子と為れ」と記されていました。王莽の天下で大臣となるべき者の名や哀章らの名前が官爵付きで記されていたそうなので、幾らなんでも露骨だなあと思ってしまいます。

 こうして着々と準備を整えた最終段階が、禅譲劇です。

 後8年、王莽は皇帝即位の儀式を執り行います。王莽は劉嬰の手を取って涙を流しながら「いま予は独人、天の命に迫られ、そのとおりにしなければなりません」と言うと、劉嬰を殿上から下ろして北面させ、臣と称させました。

 ワニの涙は空涙と言われますが、そのワニですら歯が浮くよう白々しいセリフですね。

 こうして、神話時代の堯から舜への禅譲を除けば、中国史上で始めて放伐ではなく禅譲によって王朝が変わったのでした。


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2020年01月15日

新 貨幣改革の失敗 高額取引用の貨幣が作られたが、名目価値と実質価値の乖離が大きすぎ、贋金作りが横行する 翟義の反乱

 新たに追加されたのは、12銖で5銖銭50と等価値の大銭、5銖銭500と等価値の契刀、5銖銭5000と等価値の錯刀です。いずれも、名目価値が実質価値を遥かに上回るのが特徴です。歴史上、このような状況では必ず盗鋳が起こります。現代の貨幣は、偽札が作られないように透かしを入れたり特殊なインクを使ったりすることで偽札を防止していますが、それでも完璧に贋金が作られることを防止できていません。まして、古代の単純な作りの硬貨の場合、硬貨そのものから型取りした贋金を簡単に作ることができるわけですから、盗鋳が盛んに行われました。

 同時に、列侯以下が許可なく黄金を持つことを禁じ、政府に提出させることを命じましたが、画餅に終わりました。

 貨幣改革により、かえって経済はダメージを被ってしまったのですね。この失敗により、また貨幣改革が必要になりますので、その模様をもう少し先で眺めることになるでしょう。

 貨幣改革の失敗だけでも十分な内憂でしたが、更に軍事的な問題も発生します。即ち、国内における反乱です。

 東郡太守の翟義が劉氏の一族に連なる劉信を立てて反乱を起こします。劉信は東平王劉雲の子でしたが、父の劉雲が誅殺されたため、王位を継げなかったことから不満を抱いていたのです。

 翟義は各地へ「平帝を毒殺して天子の位を摂って漢王室を滅ぼさんとする王莽に天誅を下す」と檄を飛ばしました。応じる者も少なからず現れ、反乱の規模は10万以上を数えたとされます。

 大反乱の発生に、王莽は恐れて天子代行をやめて大権を劉嬰へ返還するとまで言い出す始末です。一方で、王邑や孫建ら8人の将軍を派遣して翟義を討たせようとします。

 ところが、都が空になったと見た槐里県(三輔、すなわち長安近くの県です)の趙明、霍鴻らが反乱に呼応して兵を挙げます。こちらも10万人にも及ぶ規模となりました。

 王莽は王級らに趙明らを攻撃させるのと同時に、長安城内の警戒も最大限に高めました。首都近郊の反乱があったのですから、城内からの呼応を恐れたのでしょう。


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2020年01月14日

新 反王莽の動き 王莽は皇帝と同じしきたりで職務や祭祀を行うように為る 後6年、南陽郡で小規模反乱が起こるが鎮圧される

 同月、王莽は宣帝の玄孫のうち最年少である2歳の劉嬰を立てました。

 皇帝が若く無能であればあるほど、漢王朝には不利に働きますが、王莽は権力を壟断できます。そして、王莽のさらなる野心を満たすには、この状況こそが望むものでした。

 王莽は、職務や祭祀はすべて皇帝と同じしきたりで行うようになりました。

 誰もがみな、王莽の専権を快く思ったわけではありません。その不満が最初に爆発したのは後6年のことで、南陽郡の安衆侯の劉崇らが、手勢100余人で南陽郡の大都である宛を攻撃します。宛を押さえれば長安まで近いことから打倒王莽も夢ではなかったかも知れませんが、100余人では宛を抜くことはできず、反乱は失敗に終わります。

 なお、この反乱の後始末において、宗室劉氏に連なる者であっても参加者は処刑されていますが、7歳以下であれば刑に処されることはなかったようです。幼少だったために助けられた劉隆は、後に遠縁の南陽劉氏の反乱に参加しています。

 また、同じ反乱の後始末の過程で、群臣たちは反乱は王莽の権力が軽かったためで、より立場を重くして天下を鎮撫すべきと上奏しました。王太后は王莽に、上奏する際には仮皇帝を名乗らせることと決め、他の者には摂皇帝と呼ばせるようになります。

 同年、西羌へ遠征軍が送られます。

 これより前、西羌の一部有力者は後4年に王莽から送られた使者の説得に応じ、多額の金を受け取って帰順していました。漢はそこに西海郡を設置しています。ところが、後6年になって、また別の西羌の有力者たちは西海郡の郡都を攻撃し、太守の程永は逃亡する、といったことが起こります。王莽は程永を処刑し、護羌校尉の竇況を派遣して西羌を攻撃させたのです。

 翌7年、董況は西羌を破り、西海郡を回復します。

 王莽は西海郡へ出兵するのと並行して、貨幣改革も主導しました。それまで5銖銭だけだったのに対し、高額取引のための花柄を追加したのです。


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