2017年10月22日

ローマ3 コンスタンティヌス14 巨星墜つ 皇帝の死と、死を目前にしたアリウス派への改宗

 しかも、皇妃ファウスタも程なくして処刑されました。母子の短期間での排除には誰もが思うところがあったのでしょう。ファウスタがクリスプスに誘惑されたと訴えたから息子を処刑したら、それが虚偽の訴えだったから妻も処刑した、とする説があります。

 単に皇帝の血筋を引く息子に帝位を譲りたかっただけなら、クリスプスは兎も角としてファウスタを処刑するのは筋が通らないように思います。また、帝位を継がせたい息子たちにとっては母を殺されたことになります。そう考えると、まだ女盛りのファウスタとクリスプスの危険な情事もあり得たのかも知れません。

 この説の真偽は措くとして、クリスプスが生きていれば、後の帝国は全く違った顔を見せていたであろうことは間違いないでしょう。

 クリスプス排除後、未成年の嫡出子コンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンスの3人に加え、甥のダルマティウス、ハンニバリアヌスが副帝とされました。しかし、それは自分が他の皇帝と権力を分け合うことを潔しとせず武力で排除してきた過去に目を瞑ったものと言えるでしょう。

 息子たちは全員無事に成人するのですが、それがめでたいことだったかどうかは後に見ることにします。

 その後もコンスタンティヌス1世は外征を繰り返します。戦上手なコンスタンティヌス1世らしく、アラマンニ族、ゴート族を破り、更に放棄されていたダキアに侵入、一部を回復しています。

 特に、ゴート族相手には条約を結び、30年以上に渡ってゴート族との関係は良好なものとなったことはローマの安定に大きく寄与しました。

 337年、宿敵ササン朝ペルシアとの間に軋轢が生じます。ササン朝ペルシアが、キリスト教化していたアルメニアを占領したのです。アルメニア人がコンスタンティヌス1世に援助を求めてきたことから、コンスタンティヌス1世は遠征の準備に取り掛かります。

 しかし、その準備中、コンスタンティヌス1世は病に倒れ、31年の統治を終えました。死の直前、キリスト教の洗礼を受けたと言われます。先述の通りコンスタンティヌス1世はニカエアの公会議後にはアリウス派に接近し、アリウスの追放も解除されています。死の直前の改宗も、アリウス派です。


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2017年10月21日

ローマ3 コンスタンティヌス13 公認されたキリスト教の興隆 乱心?皇太子の突然の処刑

 以後もキリスト教は内部で果てしない内紛を繰り広げます。もしローマの国教になっていなければ、争いの結果、小派閥が乱立し、少なくとも今のように力を持つ教団にはなっていなかったと予想する学者もいるとのことです。だとすれば、公会議という形で正統派(カトリック)に多大な力を与えたコンスタンティヌス1世は、遥か後のヨーロッパにまで強い影響を与えたと言えそうです。良くも、悪くも。

 教会は遺贈や贈与により蓄財が認められ、力を強めていきます。また、彼ら自身も力が分散しないよう、司祭は妻帯禁止を決めます。イエスがまず間違いなく結婚していた(キリスト教の成立の項で述べた通り、彼はラビと呼びかけられており、ラビは結婚している者しかなれない)ことを考えると皮肉としか思えません。

 キリスト教を公認した勢いで、コンスタンティヌス1世は司祭に民事訴訟の裁定を委ねます。訴訟費用と時間を軽減するためでしたが、教会が世俗権力を握る道を開くことにも繋がりました。

 やがて、教会は多くの異端者に魔女のレッテルを貼って残忍な方法で処刑するようになります。ローマはキリスト教徒であることを否定しさえすれば除名しましたが、教会は魔女と決めつけた者は拷問を加えて自白させて処刑するようになります。老いたガリレイに教会のドグマを押し付け、ヤン・フスやジョルダーノ・ブルーノといった多くの名士もまた、火刑場で命を散らしました。

 この点に関しても、コンスタンティヌス1世は功罪半ばする、といったところでしょうか。

 326年、コンスタンティヌス1世の乱心とも思われる事件が起こります。突如、最初の妻ファウスタとの間に生まれた息子で、副帝のクリスプスを処刑してしまったのです。クリスプスはコンスタンティヌス1世の最初の妻(マクシミアヌスの娘ファウスタと結婚するに当たって離婚させられた女性)との間の子でした。異民族相手にも、リキニウス相手の戦いにも活躍を見せた若き武将は父に切り捨てられ、残忍な拷問の末に殺害されたのでした。享年、29。


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2017年10月20日

ローマ3 コンスタンティヌス12 ニカエアの公会議 イエスも首をひねるだろう三位一体説の勝利

 兎も角、リキニウスを排除した翌年の325年に、ニカエアの地で各派を集めてどの宗派が正しいのかを決める会議が行われます。アリウスの説法に起因する混乱に対応するためのものでした。後世ニカエアの公会議と呼ばれるこの会議は、アリウス派とアタナシウス派の争いでした。最終的にアタナシウス派が勝利し、ニカイア信条が確認されました。

 その信条によると、神は永遠の存在で創造によって造られたものではなく、父・子・聖霊の3つの位格を持つ単一の存在とする、いわゆる三位一体論が正しいとされました。アリウスは父である神は子や聖霊より先に存在する、としていました。敗北したアリウス派は追放され、宣教師たちはゴート族やヴァンダル族といった異民族の間に信仰を広めていきました。そのため、後にローマに入り込む異民族たちは基本的にアリウス派です。

 コンスタンティヌス1世も臨席して行われた会議で、結論を出さないなどということは許されませんから、こうして正統と異端が分かれたのですが、コンスタンティヌス1世は晩年はアリウス派に傾いています。また、息子のコンスタンティウス2世はアリウス派を公言することに見られるように、アリウス派は完全に排除されたわけではありません。

 アリウス派はグノーシス派に近く、イエスは啓示を受けたという点では特別ですが、他の啓示を受けた者と変わらずに神性はないとする、信仰という不合理の中では合理主義であろうとした一派です。彼らは万能なのは神のみであると考えました。

 イエスはユダヤ教徒でしたから、自分が神であるなどという畏れ多いことは露ほども思っていなかったはずです。それなのに、教義争いではイエスの神性を認めない側が敗北するというのは皮肉が過ぎるように私には思えます。

 三位一体こそ正義のように言われますが、イエス没後300年近く経過してからようやくヘゲモニーを握った、イエスの思想や言葉とは何の関係もない概念だと思っておけば、歴史的事実としては間違いがないでしょう。特定宗派の信仰という点からすれば間違いかもしれませんが。


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2017年10月19日

ローマ3 コンスタンティヌス11 政治的にも経済的にも軍事的にも大きな改革を行い、絶大な権力を示す新皇帝

 元老院に代わるシンクタンクである枢密院の整備も彼の業績です。『ビザンツ帝国の政治制度』から引用します。

 枢密院の起源は、元首制の始めから皇帝たちが相談した非公式な友人あるいは同僚の助言集団であった。成員は皇帝の個人的選択によっていたが、時が経つに従って次第に公的なものとなり、国政の会議であり、高等法廷ともなった。


 実際は親衛隊隊長や皇帝府のトップが枢密院を占めました。親衛隊隊長はこの頃には文官職となっていたので、軍事顧問としての参画ではありません。枢密院は6世紀には権威が低下し、高等法廷以外の役割は求められなくなり、最終的にはユスティニアヌス1世により廃止されることになりますが、暫くの間は大きな権威を持ちました。

 大掛かりな軍の再編成にも乗り出します。それも、防衛戦略の根幹に当たる部分の改革です。

 従来は歩兵長官と騎兵長官に分かれていた指揮系統を総司令官に一元化します。そして辺境の軍を削減し、野戦機動軍の定員を増やしました。辺境はより侵略のリスクに晒されることになりましたが、中央は守られるようになりました。しかし、辺境が守られてこその中央です。『新・ローマ帝国衰亡史』は、コンスタンティヌスのこの措置こそが帝国の滅亡に結びついていくと指摘しています。

 行政管区も複数の管区をまとめた4つの道に再編し、親衛隊隊長を道長官としました。以後、親衛隊隊長の役割は徴税等にまで広がり、その性格を大きく代えていくことになります。

 経済面では価値が大幅に下落した銀貨を諦め、ソリドゥス金貨を定めます。給与支払いとして流通させ、租税や罰金の支払いとして回収する形で流通を図ったのですが、ソリドゥス金貨にアクセスできない貧困層は更に苦しい境遇へと追いやられることになりました。

 何と言っても有名なのはキリスト教への待遇の大転換でしょう。

 コンスタンティヌス1世は競争相手がいなくなっても、キリスト教を迫害する事はありませんでした。それどころか、教会内部での争いに介入します。もっとも、信じるならどの宗派が一番正しいのか証明してみせろ、という話かも知れませんが。

ビザンツ帝国の政治制度 (東海大学文学部叢書) -
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2017年10月18日

ローマ3 コンスタンティヌス10 リキニウスの敗亡により、ローマは再び1人の皇帝の統治に服する

 2帝の並立は永くは続きませんでした。

 きっかけとなったのは、ゴート族の侵入です。コンスタンティヌス1世の長子クリスプスの活躍もあり、ゴート族は撃退され、ローマが戦いに赴く際には4万の援軍を送ることを誓約させられました。

 勝利を得たコンスタンティヌス1世には、もうリキニウスと帝位を分け合う気などありませんでした。ライバルの思惑を知ったリキニウスは衝突に備えます。

 324年、両軍は再び軍事衝突に至りました。今回はコンスタンティヌス13万に対してリキニウスは16万5000の軍を動員します。ハドリアノープルの戦いでコンスタンティヌス1世は勝利、リキニウスはビザンティウムに籠城します。クリスプスは数に劣る艦隊を率いてリキニウス艦隊を撃滅、コンスタンティヌス1世は海上輸送ルートを確保します。コンスタンティヌス1世は城壁と同じ高さの土塁を築かせ、そこに塔を建てると、投石機で城内を攻撃します。

 リキニウスは小アジアのカルケドンへと逃れて軍を立て直しますが、またまたまたまた敗れました。敗北後、捕えられたリキニウスはテッサロニキで余生を送ることを許されます。

 しかし、それも長くは続きませんでした。325年、ゴート族と結んでコンスタンティヌス1世に反乱を起こそうとしたことが発覚し、かつての共同皇帝マルティニアヌスと共に処刑されたのです。陰謀が本当にあったのか、はたまた危険の芽を摘もうとしたのか、定かではありません。流石に、リキニウスの妻でコンスタンティヌス1世の異母妹のコンスタンティアは赦されました。

 こうしてローマ全土は再び統一されました。

 テトラルキアはこうして完全に崩壊しました。権力を握りたいから権力を握る、という人間の欲望を理想主義者ディオクレティアヌスは理解していなかったからかもしれません。そのため、有能なリーダーディオクレティアヌスという傑出した個人の巧みな手綱さばきが失われれたば、すぐに崩壊するのは必然だったのかもしれません。

 勝利の記念として、ビザンティウムを自らの名に因んだコンスタンティノープルと改称し、元老院を設置します。元老院の定員は300名で、ローマの元老院議員より一段低い地位に留まりました。しかし、以後の統治期間のほとんどは東方にいたことを考えると、ビザンティウムの元老院の立場はローマへのポーズに過ぎないでしょう。なにせ、ローマ元老院は地位こそ高くとも実はないのですから。以後、皇帝の居所と共に、政治も文化も中心地は西へ移っていくことになります。


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