2017年07月23日

ローマ3 トラヤヌス4 第2次ダキア戦役におけるロンジヌスの英雄的振る舞い ローマの勝利

 6/4、トラヤヌスはローマを発ってダキアへ向かいます。ダキアはドナウ川防衛ラインのローマ兵に対して数に任せての猛攻を加えていました。トラヤヌスはドナウ川沿いの兵士たちに合流すると、ダキア勢を川の北岸に追い払うことに成功します。

 季節は秋に変わり、交戦は不可能となって両軍とも冬を越す準備に入ります。この間に、ダキアから新たな和平条約の打診が行われます。

 第7軍団の司令官ロンジヌスはダキアが攻勢に出た際に捕虜となっていました。ダキアはロンジヌスに対し、ローマへ和平を求める書簡を書かせようとします。その内容たるや、ドナウ川北岸をダキア領とすること、ダキア戦役の戦費をローマが払うことという虫のいいものでした。和平が成立すれば、ロンジヌス他の捕虜を解放するとロンジヌスに持ちかけたのです。

 ロンジヌスは応じました。

 しかし、実際に書かれた手紙は和平を勧めるものではなく、継戦を訴えるものでした。勿論、それが明らかになれば只ではすみません。手紙を携えた使者がローマの支配地に入った頃を見計らってロンジヌスは毒を仰ぎ、異国の地で果てました。デケバロスは怒りに任せて自ら講和の手紙を書きます。ロンジヌスと結託していたであろう先の使者を戻せば、ロンジヌスの遺体と残りの捕虜を返す、と言うのです。敢えて述べるまでもないことですが、トラヤヌスは無視し、徹底的な掃滅に向けて準備を整えます。

 ロンジヌスの遺体はローマに戻りませんでした。しかし、私は彼は本望だったと思います。覚悟しての自害だったと思うのです。

 『賢帝の世紀──ローマ人の物語[電子版]IX - 』からロンジヌスカッシウス・ディオの文章を引用します。「トライアヌスは、ロンジヌスに墓を与えるよりも、ローマ帝国の尊厳を保つことのほうが重要と考えたのであった」

 翌106年、ローマは侵攻を再開します。野戦でローマは勝利、砦に籠るダキア軍を攻城兵器を投入して一蹴、首都サルミゼゲトゥーザに迫ります。絶望から、城内では集団自決する者が多数出ました。デケバロスは逃走し、夜の闇に乗じてゲリラ戦を仕掛けるのですが、既に多勢に無勢、戦況は覆せない状況でした。結局、彼は追い詰められて自害しました。どう見ても夜郎自大な思い上がりでしたね。

賢帝の世紀──ローマ人の物語[電子版]IX -
賢帝の世紀──ローマ人の物語[電子版]IX -

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2017年07月22日

ローマ3 トラヤヌス3 ダキア征討によりダキクスの尊称を得、再度の反乱に備えて巨大な木造橋をドナウ川に架ける

 ダキアの蠢動は、まさに飛んで火に入る夏の虫のようなものだったことでしょう。

 ローマ軍は直ちにドナウ川を越えてダキアへ侵攻し、緒戦を勝利で飾ります。起死回生を狙うダキアは、別働隊を守備の薄くなったローマ本国へ差し向けます。流石に放置するわけには行きません。トラヤヌスはドナウを今度は南に渡ると、別働隊を追って決戦を挑み、敵を撃滅します。再び北に向かうトラヤヌスに、もうダキアは抗する術もありません。ローマ軍は一路首都目指して進軍、途中の都市を落としてデケバロス王の妹をも捕虜にする成果を挙げました。

 事ここに至れば、ダキアも敗北を認めるしかありません。翌年にはローマに和平を乞います。ローマはダキアの申し入れを飲み、ダキアを属国化しました。敗戦処理として、ダキアから攻城兵器は奪われ、要塞は破壊され、首都近郊にはローマの1部隊が駐留することとなりました。

 トラヤヌスはローマに戻り、ダキクスの尊称を与えられました。

 勢力は衰えたと言えども、ダキアのように叛服を繰り返す国を相手に油断などできません。トラヤヌスはドナウ北岸へのアクセスを確保するため、ドナウ川に木造橋を架けさせます。トラヤヌス橋と呼ばれるこの橋は、上下2層からなり、なんと全長1135m、幅12mという巨大なものでした。

 20本の橋桁は流石に石製で、橋桁を立てる際には木の柵で橋桁の周囲を完全に囲んで水を排出してから建設作業に入ったそうなので、さぞ大規模な工事だったことでしょう。

 トラヤヌス橋はダキアの首都を伺うことができる絶好の位置を狙って造られました。ダキアにとっては喉元に匕首を突きつけられているようなものです。

 尚、橋は現在では見ることができません。後にローマが弱体化すると異民族が橋を渡って攻め込んでくることを防ぐために焼き捨てられたのです。残った橋桁は近代まで残っていましたが、オーストリア・ハンガリー帝国が河川の航行の障害となるため破壊してしまいました。私たちにできるのは、今日のドナウ川に架かる橋を見て、往時を偲ぶことくらいです。

 不屈のデケバロス王は屈辱を忘れぬ男です。倒すべき相手はローマ。国力が戻ってきたと判断するや、ローマ攻撃を図ります。105年、ダキアは和平を破棄してローマに攻め込み、第2次ダキア戦役の幕が切って落とされました。


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2017年07月21日

ローマ3 トラヤヌス2 完璧超人トラヤヌスの内政事業と、身の程知らずのダキア討伐

 育英基金は男女や生まれの違いによって支給額は異なりますが、月ごとに嫡出男子16、女子12、庶出男子12、女子10セステルティウスが支給されました。庶出の女子にまで資金を与えるのは画期的です。ただし、国家がそのために税金を集めたわけでも、教育の場や機会を提供した訳でもありません。各地の有力者たちに、育英のためにカネを使うべきであるという意志を伝達したのです。ローマでは富裕層が公共設備や娯楽費用を供出することがノブリス・オブリージュとしてありました。皇帝の意志を知った統治者たちは富裕層に働きかけて資金を供出してもらい、極力多くの子供にカネが行き渡るよう、努力するようになったのです。

 足元のイタリアでの仕事の確保に元老院の資金投資はイタリアへ1/3以上行うことも定めました。

 これらの施策は少子化対策に役立っています。

 教育にカネをかけ、設備投資は国内優先を命じることが少子化対策というのは現代でも学ぶ点が多いでしょう。こう言っては怒られるかもしれませんが、教育には資金投入を渋り、老人向けの支出ばかりを増やしては、少子化が更に進んでジリ貧になるばかりでしょう。

 多岐に渡る分野の改革を行うにはそれこそ寸暇を惜しんで働かなければなりません。実際、トラヤヌスは過労気味に働いたようです。その精勤ぶりは執政官も務めた小プリニウスとの手紙のやり取り(『プリニウス書簡集―ローマ帝国一貴紳の生活と信条』)に明らかです。属州総督として赴任した小プリニウスに対し、丁寧な返信を書いているのですから、苦労が偲ばれます。

 おまけに、トラヤヌスは軍事的な才能も豊かでした。それを示す機会が程なくしてやってきます。

 ドミティアヌスの時代に保護国となっていたダキアが再び勢力を伸ばし、ローマと敵対するようになっていたのです。

 101年、ダキアが和平条約違反を犯したと見るや、トラヤヌスはダキア遠征に向かいます。ドナウ川中流から下流域を担当する7個軍団に、ライン川から2軍団を移し、更に新規編成の2軍団を加え、正規軍だけで8万、補助軍を入れれば15万にも及ぶ大軍準備します。一朝事あれば直ちに敵を叩き潰せるよう、配慮を欠かさなかったのです。

プリニウス書簡集―ローマ帝国一貴紳の生活と信条 (講談社学術文庫) -
プリニウス書簡集―ローマ帝国一貴紳の生活と信条 (講談社学術文庫) -

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2017年07月20日

ローマ3 トラヤヌス1 徒歩でローマ入りし、民衆の大喝采を浴びたトラヤヌスの無難な船出

 カスペリウスが処刑されたのはこの頃です。時期を考えると、あるいは腹心スラが反トラヤヌスとなりそうな者の排除に動いていたとも考えたくなります。

 ゲルマニアから帰還したトラヤヌスは、城門前でウマから降りて徒歩でローマに入り、市民の喝采を浴びます。以後もトラヤヌスは徒歩を好み、市内であれば歩いて移動しました。

 スティングはEnglishman In New Yorkでイギリス男がニューヨークで暮らすと浮いてしまうと嘆く中でいつも杖を持って歩くことを挙げていますが、皇帝が徒歩で市内を巡ることと比べたらなんともないでしょう。



 トラヤヌスには名君と謳われる者が持つ多くの特性があります。即位早々にネルウァと同様、元老院議員を殺さないとの誓いを行って人々を安堵させたのもそうですし、匿名の告発を嫌ったのもそうです。少なからぬ独裁者が独裁という不安定な大勢を維持するために秘密警察に頼ってきたのとは大違いです。北の将軍様にも是非見習って欲しいものですが、器量が違いすぎますね。

 その一方で属州総督の腐敗にはきちんと対処しました。彼のバランス感覚が優れているのは、不正に対する財産没収の対象を赴任期間のみとし、それ以前の財産には手を出さなかったことに見られます。また、罪を本人に限定して家族の罪は問わないという近代法と同じことも定めています。

 帝国内の出身地を問わず、有能な人物を登用したことも、公平で器量のある君主であるという同じ文脈で語って良いことでしょう。お友達ばかりを優遇するようなことではリーダーとしての資質に欠けていると言われても仕方がないでしょうからね。

 インフラ整備にも熱心に取り組みます。道路網を整備し、貧民救済として必需品を支給したり子供の養育基金を作ったりと、「パンとサーカス」に留まらない施策を次々に繰り出します。


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2017年07月19日

ローマ3 ネルウァ3 「人類が最も幸福だった時代」5賢帝時代を拓いたネルウァ、功績は後継者をトラヤヌスにしたこと

 必ずしもトラヤヌスが元老院からも軍からも支持される唯一の人物だから後継者と定められたというわけでは無いのです。ただ、ネルウァは強力な軍を率いるトラヤヌスを養子に迎えることで安定を手に入れたのは間違いありません。有能な人物を後継者にすべしというデリケートな理由では無く、恐らくはトラヤヌスが指揮する強力な軍の力を利用するために後継者に定めたとしても、ネルウァの後継者選択は正しかったと言えるでしょう。

 ネルウァから5人の皇帝が支配した時代、ローマは繁栄と安定を手に入れています。マキャベリはこれを高く評価し、5賢帝と呼びました。更に後、『ローマ帝国衰亡史』を著したエドワード・ギボンが5賢帝時代を「人類が最も幸福だった時代」と評しています。勿論、ギボンが当時のローマの奴隷として生を受けたのなら全く違う感想を述べたことでしょうが。

 そのネルウァですが、治世が16ヶ月と短かったため、特に何かを成し遂げたとは言えません。皮肉と諧謔で知られるアンサイクロペディアの記述を借りると、ドミティアヌスが殺されたために急遽お鉢が回ってきたご老人。「ネルウァの業績はトラヤヌスを後継者と決めたこと」と言われた人物。何をしたかというとそれをしたという、まさにそれだけの感じがしてしまいます。5賢帝に入れるのは少々持ち上げすぎのような気がするのは事実ですね。

 98年、即位時に既に老いていたネルウァが在位16ヶ月で死に、トラヤヌスが即位します。属州出身者として初めての登位でした。

 その時、トラヤヌスはダキアへの防衛体制を整えるため、ゲルマニアに赴任していました。皇帝になったからと言って直ちにローマに戻ることはなく、仕事をやり遂げたことを見届け、軍の支持を固めるために各地を1年半かけて巡った後、翌99年にローマへと帰還しました。

 と言ってもトラヤヌスの責任感の強さだけを見るのは間違いでしょう。新興の家庭に生まれ、ローマに基盤を持たないトラヤヌスのことですから、遠隔地からローマを掌握できると確認できるまでは戻りたくなかったのかも知れません。4皇帝の年に終止符を打ったウェスパシアヌスも、自身は暫くエジプトに留まってローマ情勢と息子ティトゥスが攻撃を続けるユダヤ戦争の行く末を確認していましたね。

ローマ帝国衰亡史 全10巻セット (ちくま学芸文庫) -
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