2019年10月22日

漢武帝 史記の改変 武帝後の前漢を知るための書、漢書 司馬遷と班固の置かれた境遇は史記と漢書の性格の違いを際立たせることになる

 また、父の司馬談が執筆に関わっていたこともまず間違い有りません。「私はだれそれから直接話を聞いた」というような記述があります。例えば刺客列伝の荊軻による始皇帝暗殺未遂事件について、「太史公」は薬嚢を投げて始皇帝を救った夏無且と付き合っていた公孫季功と董生が話を聞いており、それを話してもらったと記しています。

 始皇帝暗殺未遂事件が前227年、司馬遷の誕生には諸説ありますが、前145年としても、話を聞ける頃には100年ほど経っておりますので、不可能ではないにしても可能性は低いように思います。

 司馬遷の断筆後も、史記に追記したり劉向やその子の劉歆(りゅうきん)らのように続編を記す者も現れます。ただ、それらは質の面では足りないとされていて、史記の質の良さを感じさせるものになっているようです。

 こうした後世の加筆よりも、我々が漢を知るのに役立っているのは後漢に班固らによって著された『漢書』です。後漢の明帝は班固を蘭台令史という役職につけ、漢書を編纂させました。蘭台令史は司馬遷の就いていた太史令と比べて遥かに低い役職です。太史令が600石だったのに対し、蘭台令史は100石にすぎません。

 一方、司馬遷は役所の文書を使いつつも史記は命令を受けて書かれたものではないのに対し、班固は漢書編纂を命令されて行っておりますので、その差があるのでしょう。しかし、国の命令を受けたということは、国の姿勢から離れることは許されない、ということを意味します。既に儒教倫理が行き渡っていたため、漢書は史記と比べて自由さや国家批判という色彩をほぼ持たないものになっています。

 漢書もまた班固一人によって書かれたものではありません。光武帝に仕えた父の班彪の記録に負うものが多くありました。班固は漢書を完成させることができないまま世を去り、その完成は妹の班昭が担いました。

 こうして劉邦から王莽までの230年間の歴史を12本紀10志8表70列伝にまとめた漢書が成立しました。史記以降の歴史については、なによりもこの漢書が基本的な史料となります。

 班固ら文人一家については、異色の存在にも見える班超とともに、後に見ることになるでしょう。



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2019年10月21日

漢武帝 史記の改変 史記の武帝に関する記述は後世書き換えられている 

 史記の結びを思い返してみましょう。麒麟ではなく、方士についてが最後の記述でしたね。しかも、武帝についての伝記は「今上本紀」ではなく、同時代の人間には知りようのない「孝武本紀」です。武帝とは諡号ですから、武帝の死後にしか分かりませんからね。

 これを考えると、司馬遷が著した武帝に冠する記述は失われ、現存するものは後の世に付け加えられたことが分かります。

 武帝時代の最後の記述について、武帝が削除させたという説があるのも頷ける話ではあります。春秋が高級官僚のほぼ必須条件のような中で、司馬遷の意図が気づかれないはずがありませんからね。

 例えば、後漢の明帝は史記を記したことは讃えられるべきことだとしながら、当世を謗ったことについては非難しています。

 後世に手が加えられたということを理解した上で、史記を改めて見てみましょう。全130編、536,500字というこの大作について、『第03巻 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国) (中国の歴史 全12巻)』は、木簡1枚に1行35字とすると1万5000枚と計算しています。その内容については『十八史略で読む史記』が簡潔にまとめているので引用しておきます。

 『史記』は、中国最初の通史で、黄帝から前漢武帝期までを扱う。有史以来の主な国家の編年史を「本紀」12巻とし、政治史を中心とする歴史過程の大綱を示し、その歴史過程の認識をより正確にするために、系図および年表を10巻の「表」に示す。そして、儀礼・制度・音楽・天文・暦法・祭祀・治水・経済などの分野史を8巻の「書」に著し、諸侯の国々の歴史を30巻の「世家」として書す。最後に多くの人物の伝記を70巻の「列伝」において叙述した。あわせて130巻。司馬遷はこれを『太史公書』と名付けた。


 太史公書が私達に馴染みの深い史記と呼ばれるようになるのは後漢の霊帝以降のことです。

 もちろん、この膨大な著作をたった1人で一から作ることは不可能です。出土した同時代史料の研究から、9割以上は先行する文献から集めたとされています。例えば、孫武が呉王の前で後宮の女たちを調練する話は銀雀山から出土した史料に見ることができます。こうした先行文献が史記の糧となったのですね。

第03巻 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国) (中国の歴史 全12巻)
第03巻 ファーストエンペラーの遺産(秦漢帝国) (中国の歴史 全12巻)


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2019年10月20日

漢武帝 史記の結び 麒麟を捕らえたことを記して司馬遷は史記をかきあげたとしているが、これは春秋の結びと同じ 武帝への批判が込められた

 任安のように明確な罪がある(私には彼はなすべきことをやったように見えますが)者のだけではなく、劉拠の寵愛を受けていた者たちには皆死刑判決が下ります。その中に張湯の息子の張賀の名前もありましたが、兄で衛将軍となっていた張安世が除名を願ったため、宮刑を受けて生き延びています。

 さて、巫蠱の乱はこうして収束したわけですが、皇太子を失うなど、漢に残したダメージは小さなものではありませんでした。

 前91年、史記は武帝が祭事を行ったことを記したあと、遅まきながら方士の法螺に倦んできましたが、それでも方士との関係は切らなかった(効果はなかった)と記し、筆を置いています。

 少なくとも現在に残る史記を見るとそうなっているのですが、司馬遷自身は「上は黄帝から、下は獲麟に至るまで」記録したと太史公自序に記しています。獲麟とあるのは、前95年(武帝の太始2年)に隴首において白麟を得たという出来事を指します。

 これは大変な問題を孕んでいます。過去、全く同じように、瑞祥があったことを記して筆を置いた人物がいましたね。伝説に、孔丘が春秋を書き終えることになったのは、とても名君とは言えない哀公の時代に麒麟が捕らえられたことに絶望してのことでした。孔子に仮託して武帝を批判していることになりますね。

 『十八史略で読む『史記』: 始皇帝・項羽と劉邦 (漢文ライブラリー)』は以下のように指摘しています。

春秋公羊学を修めている司馬遷が、獲麟で筆を擱いたのであれば、司馬遷は漢の滅亡を予感し、孔子の『春秋』と同じように『太史公書』を後世に遺し、乱をおさめるための法を描いて、後王にそれを残そうとしたことになる。


 麒麟の捕獲をきっかけに筆を置くだけではありません。太史公自序において、司馬遷は太史公書が亡失しないように原本を山に蔵して「後世の聖人・君主を俟つ」としています。春秋公羊伝は「春秋を制し以って後聖・君子を俟つ」と、ほぼ同一の言葉ですから、これを意識しなかったはずがありません。武帝に対してかなり批判的であったことが見て取れ十八史略で読む『史記』: 始皇帝・項羽と劉邦 (漢文ライブラリー)
十八史略で読む『史記』: 始皇帝・項羽と劉邦 (漢文ライブラリー)ますね。




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2019年10月19日

漢武帝 史記成立 司馬遷自らが綴った李陵弁護の理由と宮刑を受けてでも生きて史記を書き上げようと望んだ心意気

 司馬遷が宮刑に遭うことになった経緯も、彼自身の筆で綴られています。

 私と李陵はともに侍史の官にあった。しかし平素はあまりつき合いがなかった。私たちの好みや志も異なっていた。一度もともに酒を飲み、情を尽くして歓び合うことはなかった。けれども私が彼の人と為(な)りを見るところ、節操を守る奇士である。親に事(つか)えては孝行、士と交わっては信義がある。財物に対しては廉潔、人とのやりとりには義(ただ)しさがあった。(略)そもそも臣下として命を惜しまず死地に赴き、国家の危難に当たるのはまことに得がたきことである。今日、李陵は匈奴と戦い、匈奴に降るという不本意な結果となった。ところが身の安全と妻子の無事を第一とする臣下たちがそれとばかりに李陵の失敗を誇大にいい、そしてそれをそしった。これは私が最も心を痛めることである。


 引用したような心で司馬遷は機会を見つけて李陵を擁護し、偽りを述べたとして死刑判決を下されたのでした。罪を贖うだけの財産を持っていなかったことから、司馬遷が宮刑を受けたことは記したとおりです。

 
私は臆病者であるが、もし生き延びようとすれば、去就の道理はよく弁えているつもりだ。どうして自分で牢獄につながれる辱めを受けることがあろうか。その上、奴隷や婢妾も自殺を決心できる。まして私などは当然自殺すべきであろう。しかし堪え忍んで生きのび、糞土の中のような牢獄にとらえられて死なないのは、私の理想としているものがまだ完成せず、そのまま屈辱の中に世を去り、私の文章が後世に伝わらないことを残念に思うからである。
(以上、『中国古代書簡集 (講談社学術文庫)』)

 こう述べた後で、司馬遷は周の文王や孔子、屈原、左丘明(春秋左氏伝でも知られ、『国語』を著した人物)、孫臏、呂不韋ら苦難を乗り越えて著作を完成させた人物の名を挙げ、(史記に)「着手して間もなく、まだ完成しないなか、宮刑に遭った。未完成であることを惜しみ、そこで極刑に処せられても怨むことはなかった。私はこの書を著し、これを名山の中に蔵し、これを理解する後人につたえ、大都市に広まるようになれば、私は前に受けた恥辱の責めを償うことになる。たとえ一万回の死刑を受けたとしても、どうしてくいることがあるだろうか」と記しています。

 不朽の名作、史記はこうして完成したのでした。

中国古代書簡集 (講談社学術文庫)
中国古代書簡集 (講談社学術文庫)


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2019年10月18日

漢武帝 巫蠱の禍5 過酷な事後処理により、多くの者が処刑される 処刑の決まった任安に司馬遷が送った書簡「任少卿に報ずる書」について

 劉拠には「戾」という諡が与えられました。このことから、劉拠は戾太子と書かれることもあります。この「戾」とは「悪逆な」を意味する言葉なので、彼の名は死後も辱められることになったのです。

 事後処理は過酷なものになりました。衛皇后は自害させられ、その一族は滅ぼされました。同様に、劉拠の妻や子どもたち、子の配偶者たちまで殺されたのです。

 一族だけではなく、反乱に少しでも与した者も死刑となります。例えば、劉拠を長安城から逃した司直の田仁は族滅となりました。意外なことに、劉拠から節を与えられながら、北軍を守って動かなかった任安も収監され、死刑の宣告を受けました。

 任安が収監中、旧友の司馬遷へ「賢者を推薦するのが義というものではないのか」と非難する書簡を送っています。これに対し、司馬遷が返事をしたのが、「任少卿(少卿は任安の字)に報ずる書」です。片や死刑を待つ身、片や死刑を逃れるために宮刑を選んだ身の、辛い手紙です。

 この手紙には、司馬遷が史記を著した心情が書かれているため、中国古代の書簡の中でもとりわけ有名です。幸い、その内容は『漢書』や『文選』、『中国古代書簡集』などで知ることが可能です。

 かなり長文なので全文を紹介することはとてもできないのですが、『中国古代書簡集』から触りだけでも引用しておきましょう。

私は才能が衰えているとしても、かつて年長の高徳者たちのつたえた教えをそばで聞いたことがある。しかし自分をふりかえってみると、身体は宮刑によってそこなわれ、地位は卑賤だ。何か行動しようとしても、他人に責められ、なにかよいことをしようと思っても、かえって事情は悪くなる。そこで私は独り鬱々として他にともに語る人がいない。


 このように述べて、任安の非難は当たらないと記します。宦官に対する当時の士大夫層の反応は、司馬遷の手紙にこうあることから察せられます。

禍は利欲より悲惨なものはなく、悲しみは傷心より痛ましいものはなく、行いは祖先を辱めることほど堪え難いものはなく、恥辱は宮刑より大きいものはないのである。宮刑を受けた人は通常の人と一緒に肩を並べられるものではない。これは今日だけのことではなく、古からそうである。(略)古から宦官を別紙したものだ。そもそも普通の人が事、宦官にかかわりがあれば気持ちが害されるが、まして慷慨高節の士はなおさらである。



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