2020年11月08日

三国志 劉虞の死3 公孫瓚は劉虞の軍を火攻めによって追いつめ劉虞を捕える 公孫瓚は劉虞を斬り、部下もまた公孫瓚を罵倒して処刑される

 逆に、公孫瓚は精鋭数百人を選別すると、風に乗じて火を放ち、劉虞軍を攻撃しました。劉虞は大いに破れ、北の居庸へ逃げこみます。公孫?は劉虞を囲むと、わずか3日で城を落としたのです。公孫瓚は劉虞と妻子を捕え、薊に戻り、なお州の文書を扱わせました。

ところが、朝廷は段訓を使者にして劉虞の封邑を増して6州を監督させ、公孫瓚を前将軍に任じて幽州、并州、青州、冀州を監督させようとしました。これでは、公孫瓚は劉虞の下に立つことになってしまいます。

 公孫瓚は、劉虞は袁紹と天子を称さんと謀っていましたと誣告し、段珪に劉虞を斬らせようとしました。そして、「もし劉虞が真に天子となるべきものであれば、天は風雨によって救うであろう」とうそぶきました。勿論、風雨が処刑を留めるようなことはなく、劉虞は斬られ、その首は長安に送られました。

 この時、元の常山の相孫瑾、掾の張逸、張瓚らは共に劉虞のものに駆けつけ、口を極めて公孫瓚を罵倒し、共に処刑されています。また、劉虞の首が長安に送られる途中、劉虞のかつての部下だった尾敦(びとん)が劉虞の首を奪い、帰還して首を葬りました。

 劉虞は恩が厚く、民衆の支持を得ていました。北方の人士はなついていたので、旧来から住む者も流亡してきた者も、痛惜しない者はありませんでした。戦争は避けるのであればあらゆる手段を使って避けるべきですが、いざ戦うとなると無駄な制限は課すべきではありません。劉虞が君子ぶろうとしたのは、宋襄の仁と同じようなものだったと言うべきでしょう。

 公孫瓚の上奏により、段訓は幽州刺史となっています。

 こうして、北辺は公孫?が抑えることとなり、袁紹と公孫?の一騎打ちの様相を呈するようになります。

 劉虞によって献帝のもとへ派遣されていた田疇が帰任したのは、既に劉虞が殺された後でした。田疇は劉虞の墓を詣でると、献帝からの返信を読み上げ、哭しました。ところが、その行為が公孫?の怒りを買ってしまいます。公孫瓚は田疇に賞金をかけたため、田疇は捕えられて誅殺されそうになります。田疇が毅然と反論したため、処刑は免れ、後に釈放されました。釈放された田疇は一族を連れて山に籠もり、袁紹の招聘を受けても応じません。彼が表舞台に立つのは、更に後になります。


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2020年11月07日

三国志 劉虞の死2 劉虞は遂に公孫瓚攻撃を命じるが、公孫瓚以外は傷つけるなとの無茶な命令により、不意を衝かれた公孫瓚すら攻略できない

 劉虞は公孫瓚を除こうと考えて魏攸に諮ります。しかし、魏攸は「今、天下は首を伸ばし、公に期待を懸けております。謀臣や将軍が必要で、公孫瓚は文武の才は頼むに足ります。彼に小さな問題はありますが、どうか赦して我慢なさいますよう」と答えたため、劉虞は攻撃を取りやめましたが、問題は解決していないのですから、時が流れるにつれて緊張は高まっていくばかりでした。

 遂に、劉虞は10万の兵を率いて公孫?を攻撃することを決します。従事の程緒は兜を脱いて進み出ると、「公孫瓚に罪はありますが、その罪名は明らかにされておりません。また、殿には彼を教え諭し、改悛させることができませんでした。それなのに、身内同士で戦うのは国の利益ではありません。加えて、勝敗の帰趨は分かりません。兵を動かさずに圧力を加えるだけで、公孫瓚は必ず罪を詫びるでしょう。これこそ、孫子の兵法に言う戦わずして人の兵を屈する、というものでございます」と進言しました。

 公孫瓚がそのような謙虚な人物とはとても思えません。劉虞も同じ考えだったようで、程緒を斬って見せしめとし、兵士たちに公孫瓚攻撃を命じました。しかし、ここに至ってもまだ、劉虞は君子然とした態度を捨てようとしませんでした。「ただ公孫伯珪のみを殺せ。他の者は傷つけてはならぬ」と命じてしまったのです。

 従事の公孫紀なる者は、公孫瓚と同姓であることから、かねてから親しくしていました。公孫紀は夜の間に陣を抜け出して公孫瓚の下へ急行すると、攻撃計画を告げてしまいます。公孫瓚はこの時、兵士を外に派遣していましたので、突然のことに驚いて逃亡を考えました。それほど、公孫瓚にとっては危機的な状況だったのです。

 しかし、このような絶好の機会を、劉虞たちは活かすことができませんでした。劉虞の無茶な命令が背景にあることに加え、麾下の兵はそもそも戦いなれていませんでした。更に、劉虞は火計の使用も却下したため、劉虞の軍は公孫瓚を包囲こそしましたが、攻略することができません。


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2020年11月04日

三国志 劉虞の死1 公孫瓚と劉虞の対立は深まり、両者は何度も朝廷に互いを非難する上奏を行う

 しかし、同じ時期に李?が太尉周忠と尚書賈詡の策により朱儁を入朝させようとします。もちろん、賈詡の策とは東方諸侯の切り崩しのことです。

 朱儁の部下はみな、函谷関に入らずに陶謙らに応じるよう説得しましたが、朱儁は「天子の詔で臣を召したのだから、従わないわけにはいかない。かつ、李?や郭は小童、樊稠はぼんくらに過ぎず、他に深慮遠謀があるわけでもない。彼らの戦力は同じ程度で、必ずや変事が起こる。そこに乗じれば大事を為すことができよう」と言って入朝し、太僕となっていました。そして今回、太僕から太尉に昇進したことになります。朱儁は下に見る李?・郭をコントロールしようとしていたのでしょうが、その結末についてはもう少し後に見ることになります。

 同年10月には、公孫瓚が遂に不仲だった劉虞を殺してしまいます。その経緯を眺めておきましょう。

 公孫?が袁紹と激しく衝突していたことは既に述べてきました。その一方で、公孫瓚は劉虞との対立も深めていきます。

 軍事行動を好まない劉虞は対立が激化しても濫りに兵を動かしたくないと思いながらも、公孫瓚が強大化すれば歯止めが効かなくなると逡巡しました。劉虞が採用したのはなんとも中途半端な、現状是認と理想追求の間をとったもので、すなわち公孫瓚へ送っていた兵糧を削減する、というものでした。

 公孫瓚は怒って劉虞配下の百姓を攻撃し、劉虞が異民族に報奨を与えようとすればこれを奪いました。

 劉虞は駅伝を中央に送って公孫瓚の行動を非難すると、公孫瓚もまた軍糧が十分に送られてこないと訴え出ます。両者から互いを非難する奏上が何度も行われますが、朝廷でははっきりした答えを出せませんでした。

 両者の対立は高まり、公孫?は高く塁壁を築いて劉虞の居城である薊城に備えさせます。劉虞は何度も公孫瓚を招きますが、公孫瓚は病気を理由に会見を拒否しました。


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2020年11月03日

三国志 劉備、徐州へ 陶謙は公孫瓚配下で斉に駐屯していた田楷に助けを求める 田楷は劉備と共に徐州に向かう

 この時の大虐殺は曹操の生涯最大の汚点となり、少なからぬ名士が徐州での蛮行を理由に曹操に失望します。例えば、?州の名士の辺譲は曹操を批判しています。曹操は失策を分かっていたのか、あるいは批判されたことを不快に思ったのか、辺譲を殺してしまいました。
曹操は攻撃を続けたかったのかもしれませんが、兵糧が切れたために撤退します。

 陶謙は、公孫瓚配下で袁紹や曹操に圧力をかけるために斉に駐屯していた田楷に助けを求めます。この動きはまず間違いなく、陶謙と同じく袁術ラインにいた公孫瓚を頼ってのことでしょう。田楷は劉備とともに陶謙を救援します。

 この時、劉備の配下には私兵1000人余りと幽州の烏丸に属する諸部族の騎兵がいました。そこに、飢えた民衆数千人を無理やり組みいれて数を増やし、陶謙のもとに赴きます。

 陶謙は4000の兵を劉備配下に加えました。厚遇を受け、劉備は田楷のもとを去って陶謙に身を寄せることになります。陶謙は上表して劉備を豫州刺史とし、小沛に駐屯させました。

 曹操の徐州攻撃は翌年も続けられるのですがそれに触れる前に同じく193年に怒った出来事について触れておきましょう。

 6月、李傕らは太尉の周忠を免職し、後任に太僕の朱儁を充てます。この動きは間違いなく東方の諸侯の切り崩しと関係しています。少し、朱儁を取り巻いていた状況を見てみましょう。

 朱儁は李傕と郭の乱の際、中牟に駐屯していました。陶謙は朱儁は名臣で多くの戦功があることから大事を委ねるべしと指摘し、他の豪傑たちと共に朱儁をリーダーに担いでして李傕らを討ち、天子を迎えようと図っています。陶謙に賛同したのは泰山太守の応劭、北海の相孔融らで、「国家は既に董卓に遭い、今は李傕と郭の禍により幼主は囚えられ、忠義の臣は疲弊し、長安は隔絶して吉兆(皇帝の生死)すら定かではない。明哲雄覇の士でなければ乱を治めることはできぬであろう。我々は国難を消すには、文武に優れ全ての君子に期待を寄せられている朱儁しかいない」と主張していました。

 反董卓連合軍とは異なるところで、同盟を結んで董卓に対抗しようという動きがあったのです。


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2020年11月02日

三国志 徐州侵攻 曹嵩の死についての異説 曹操は後事を信頼する張邈に託し、徐州に侵攻する

 曹嵩は息子からの迎えだと思って彼らを迎えたところ、陶謙の兵はまず曹操の弟の曹徳を殺害してしまいます。曹嵩は恐れ、裏の土塀に穴を開けると、まず妾を外に出そうとしました。レディーファーストはお見事と思いますが、しかし、これは裏目に出ます。妾は太っていたため、抜け出すことができなかったのです。曹嵩は脱出を諦めて便所に逃げ込みましたが、そこで妾と一緒に殺されました。顛末を知った応劭は曹操に殺されることを恐れ、官を捨てて袁紹のもとへ身を寄せました。

 一方、武帝紀に引く『呉書』はまた違う話となっています、

 曹操が曹嵩を迎えにやったところ、曹嵩の荷物を運ぶ車は100台あまりにもなりました。そこで、陶謙は都尉の張闓(ちょうがい)に200の兵を与えて護送させることとしたのですが、張闓は曹嵩を殺して財物を奪った、というのです。

 三国志演義は『呉書』を採用しています。そして、その後の流れを考えると、私には前者の、より陶謙に責任がある流れが正しかったのではないかと思われます。では、演義はどうして『呉書』を採用したのでしょうか。それは、陶謙に善玉でいて欲しかったからではないか、と思います。その理由については後に見ることと致します。

 父を殺されたことに怒った曹操は、家族に「私に何かがあったら張?を頼るように」と言い残し、自ら徐州に攻め寄せました。

 陳寿の本文では父の弔い合戦ということに触れずに、下邳の闕宣が自ら天子を名乗り、陶謙もまた闕宣とともに兵を挙げたためと説明しています。しかし、下邳の闕宣については、陶謙と同盟していて、後に陶謙に殺されたことは記したとおりですから、それが理由ではなく、やはり敵討ちが正しいと考えるべきでしょう。

 実際、曹操の戦いでは他に類を見ないことに、その侵攻は残虐極まるものでした。陶謙の軍は潰走し、後には無数の死体が残されました。万にのぼる死者のために泗水の流れがせき止められた、と陳寿は記しています。



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