2018年09月21日

春秋戦国 荀卿3 孟子と荀子の「性」の違いと、荀子の道徳規範と国家観

 しかし、これは両者の「性」の考え方の違いによるものです。

 両者の考えについて、『韓非子―不信と打算の現実主義』から引用しておきましょう。

 これまで多くの研究者が解説してきたことではあるが、荀子の言う「性」とは、自然のままの本性、素材、先述の天が外界の自然現象(nature)であるのに対して、人間の内的自然(human nature)を「性」と定義づけたのである(内山俊彦『荀子』)。
 「性」に対立するのが「偽」であるが、”にせもの””いつわり”といったそれは意味ではなく、「為」に通じた、自然の性を矯正し、人為的、後天的な理性、これを偽と言っている。


孟子は人間の内心にある道徳への傾斜、志向、その存在を認めて性と呼んだ。一方の荀子は人間の生まれながらの生地、素材を性と呼んだのであり、性の定義からしてふたりの主張は同じ土俵に乗っていないのである。


 荀卿にとって、人の性とは天の為すもので、学習では身につかないものです。『荀子』は、中国古代思想において思想家たちが人の性をなぜ問題にし、どのような変遷を辿ったかを丁寧に解説しているので、興味がある方には是非お勧めしたいと思います。ここでは上述書に従い、触りだけ紹介します。

 性という文字は、その構造の通りに「生」まれたままの「心」を意味する(上掲書)ものでしたが、社会構造が複雑化して伝統的な生活が変化していく中で、人はどのように生きるべきか、とりわけ、道徳規範を支える根拠として「人の性」が云々されていくようになったそうです。

 道徳規範を問うということは、国家観と密接な関係を持ちます。そもそも、道徳というものは、世界でたった1人しか居なくなれば何の意味も持たないものであることを考えれば、集団を統治するための思想と密接な関係を持つことは明らかですね。例えば、世界で自分しか居ない時に、酔っぱらい運転することは悪であるかどうか考えれば分かります。

韓非子―不信と打算の現実主義 (中公新書)
韓非子―不信と打算の現実主義 (中公新書)

荀子 (講談社学術文庫)
荀子 (講談社学術文庫)


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2018年09月20日

春秋戦国 荀卿2 学問を続ければ成長し続けるということを「青は藍より出でて藍より青し」と表現した荀子 人は教育を受けなければ善にならないと説く(性悪説)

 以前も書いた通り、稷下の学士は斉が領土を取り戻して程なくして復活しています。 稷下の学士が復活したことについて、『荀子』は「主権者などの権力者たちからすれば、こうした「諸子」たちを、自分のまわりに養っておくことが、政治上の問題の相談相手としてばかりではなく、いわばかっこうな装飾としても有益だったらしい」としています。

 確かに、国の復活を示すのに丁度良いのかも知れません。その頃は名を知られた論客は既に外国に移ったり鬼籍に入ったりしたこともあり、彼は祭酒を3度務めるほど重んじられたようです。

 しかし、讒言に遭って斉に居られなくなり、楚の春申君を頼って楚へやってきたのでした。春申君は荀卿を蘭陵の令に任命しています。荀卿はそこで役人をしながら弟子の面倒を見たようです。

 彼が記したとされるのが『荀子』で、『荀子』によれば、「『荀子』の文章は、比喩や対偶式(対句式)表現を多く用い、時に、文中に押韻の部分を挿入するなど、古代の「諸子」たちの遺した書物のなかでも、工夫を凝らし整ったものである」ということで、文章が下手なことで定評のある墨翟とは大違いですね。

 荀卿は儒家の流れを汲むのではありますが、儒家の枠には収まりきらない興味深い人物です。

 『荀子』32篇の最初に置かれた勧学篇の冒頭は、「学問は辞めてはならない。青色は藍草から取るが、元の藍草より青い(青は藍より出でて藍より青し)」で始まります。学問を続けることで、少しでも成長することが大切だ、という教えです。

 このようなことを言う人物が、「人の生まれついての性質は悪であり、善いものは学習で身につけるものだ(人の性は悪なり、その善なるは偽なり)」というのは実に頷けますね。

 見て分かる通り、孟軻ほど理想主義ではなく、著作中で孟子を批判しています。私としては荀卿と孟軻では荀卿に同意する一方で、孟軻の言う井戸に子供が落ちそうな場合に子供を救おうとするのは生まれつきの性でやる人が多いでしょうから、人の善の全てが教育の成果というのも極端にすぎるように思います。

荀子 (講談社学術文庫)
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2018年09月19日

春秋戦国 荀卿1 晋の名族中行氏と智氏と同じ流れを汲む名門生まれの荀卿 秦への遊説は失敗し、斉に向かう

 さて、李斯は今のままでは場所を変わるにも自分に然るべき力がないと、学問を志します。強引に現代風に言うなら、一度退職して職業訓練校に入ったようなものかも知れません。

 李斯が師に選んだのは、姓悪性で知られる荀卿(荀子)です。「卿」は尊称とも、字とも言われます。その場合、名は「況」と伝えられますが、ここでは荀卿として話を進めることに致します。

 荀卿は趙出身です。興味深いことに、晋が韓魏趙に分裂する前の6卿が晋を支配していた時代、中行氏と智氏が共に荀を姓に持つ一族でした。彼らのルーツは晋が荀という国を滅ぼした際に晋に飲み込まれたというもので、どうやら荀卿もこの流れを汲むようです。そのため、荀氏の公孫であることから、孫卿とされることもあるようです。

 『荀子』によれば、彼は40代で秦に趣き、范雎や昭襄王に面会し、秦が天然の要害という地に恵まれ、人々は素朴で従順、役人は真面目で忠実、大夫は徒党を組むこともなく、朝廷は云々と褒めそやした上で、儒家を売り込んでいます。

 秦は強者として有り続けていますが、天下が秦に逆らうことを恐れている、と荀卿は見ます。それは王者の治世を行っていないからである、とします。儒者が国を治めれば、礼節があり、規律が守られ、人々は誠実になり、宝くじは当たり、人望が出て、以前の僕はモテない男の見本だったが今はモテモテでって、ブ✕ワーカーか幸福のペンダントですか儒家は、とツッコミたくなるようなことを主張します。大体、儒教国を名乗る国が平然と約束を破り、常識に欠けた振る舞いをし、ありもしない起源を主張する無様な姿を何度も目の当たりにしている私達にはとても信じられない話ではありませんか。

 しかし、荀卿がどれほど熱弁を振るっても、秦は法家思想を取り入れて成長してきた国ですから儒家とは合わない点が多々あります。当然のことでしょうが、採用はされませんでした。その後、50歳の頃に斉へ行きます。斉は燕に占領された土地を奪い返した襄王の頃です。


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2018年09月18日

春秋戦国 秦王政の即位 荘襄王は即位わずか3年で死んで秦王政が即位する 実権は宰相呂不韋に握られた

 廉頗が死ぬ少し後の前246年、秦の荘襄王が死去します。在位は僅かに3年でした。

 孝文王の治世が短かったのは、その父である昭襄王が長生きしたからということで説明がつくかもしれません、しかし、孝文王は前にも紹介したとおり即位3日で亡くなっています。それを考えれば、荘襄王の在位は不自然なほどに短いとも言えるでしょう。あるいは、孝文王も荘襄王も、自然死では無いのかもしれません。その場合、最も利益を得るのは呂不韋であるように思いますが、いかがでしょうか。

 こうして、嬴政が秦王として即位します。

 宰相の呂不韋は列侯に封じられ、文信侯を名乗ります。この即位の際、晋陽が叛いて将軍の蒙驁(魏無忌に敗北した将軍でしたね)が鎮圧に当たっています。昭襄王の長い治世において領土は急拡大したため、そもそもが不安定だったのに、孝文王、荘襄王が次々と亡くなって幼い王が立ったのですから、秦からの離脱を望む地域が出るのは不自然ではないでしょう。

 とはいえ、13歳の、現代日本で言えば中学1年くらいの子が処置をするには重すぎるでしょうから、全ては呂不韋がコントロールするわけです。

 例えば、秦王政が即位して3年め、魏無忌が身を持ち崩して死に、その兄である安釐王も死んで太子増が景湣王が即位すると、秦は魏を攻撃して20城を抜き、秦の東都としています。更に翌年は朝歌を、更に翌年は汲を、というように、魏は徐々に領土を削られていきました。この辺りの動きは呂不韋の指揮によるものでしょう。

 秦王政が主導権を取り戻すには、別のブレーンを必要とするのですが、その人物について触れるには少し遠回りが必要ですので、少々お付き合いください。

 楚で、ある小役人が仕事で心を病んでいました。その人物は、トイレで汚物を食べていたネズミが逃げいていくところを見た直後、倉庫の中ででっぷりと太って人間をむしろ邪魔者のように見やるネズミを見ます。そして、「人間が賢いとか愚かだとかいうのもネズミと同じことだ。どこに居るかで決まるのだ」とつぶやき、一念発起します。この人物の名を、李斯と言います。

 現代でも、低評価で悩んでいる人には当て嵌ることでしょうね。あらゆる事に無能という人は居ないのでしょうから、低評価が続いているなら別の場所を探すほうが、自分にとっても周りにとって幸せな人生を送れるような気がします。


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2018年09月17日

春秋戦国 信陵君魏無忌の死 安釐王は讒言を信じて魏無忌を遠ざけ、魏無忌は無念のうちに死ぬ 合従の崩壊と、廉頗の死

 この時、魏の太子増は秦に人質となっていました。秦は捕らえようとしたのですが、ある者が「魏の公孫喜は宰相に秦を討つよう勧めていました。さすれば秦は増を捕らえ、怒った魏は秦を討って勝利するでしょうと言っています。公孫喜の策にのることになります。それより、魏と結んで他国に魏を疑わせるのが良いでしょう」と進言したので、秦では増を捕らえるのを止めました。

 函谷関から出ることができなくなった秦は、晋鄙の食客だった人々に金をバラまき、魏無忌が王位を狙っていると安釐王に吹き込ませます。更に、秦からは魏無忌の即位を祝う使者が魏に送られます。

 猜疑心に駆られた安釐王は魏無忌を解任してしまいました。魏無忌は讒言で解任されたことを知ると、絶望して酒と女に溺れるようになります。そして4年後、身を持ち崩して不遇の中に亡くなることになります。

 さて、合従はどうも長くは続かなかったようで、同年、趙の将軍廉頗は魏の城を攻め落とす功績を挙げています。これが同じ年となると、魏無忌の記事か廉頗の記事のどちらかを疑いたくなります。

 長平の戦いの後も弱体化した趙を背負い活躍し続けた廉頗でしたが、思わぬところでそれも終わりを告げます。趙の孝成王は廉頗を重んじましたが、孝成王が死んで悼襄王が立つと廉頗の地位は楽乗に与えられてしまったのです。

 我慢できなかった廉頗は楽乗を攻めて敗走させますが、これはもはや反逆罪に等しいため、趙に留まることはできずに魏へと亡命します。その後、復職の話も上がるのですが、廉頗を嫌う郭開という者が、交渉の使者に「廉頗は会談中3度も失禁した」と言わせ(3度トイレに立ったという説もあるようですが、酒も入っての席で3度トイレに行くのは不自然なことではないので、失禁説を採ります。ただ、遥か後にトイレを我慢しすぎて亡くなった方を見ることになるでしょうから、皆様はトイレを我慢しないでください)、廉頗は老いて役に立たないと悼襄王に思わせてしまいます。結局、悼襄王は廉頗の採用を止めてしまいました。

 廉頗が魏で腐っていることを聞いた楚が将軍として招聘するのですが、功を挙げられないまま、寿春で亡くなりました。最後まで、「趙の兵と戦いたい」と言っていたとのことですが、自業自得というべきかも知れません。


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