2020年10月25日

三国志 孔融の危機2 孔融は太史慈が遼東に逃亡していた際にその母の面倒を見ていたことから、太史慈は孔融のもとへ駆けつけた

 そこで、太史慈は「もし貴方が文書を手渡すようなことがなければ私が破ることはできなかった。2人はともに過失があったのだから、このまま黙って逃げよう。さすれば、死ぬべき命も永らえることができよう」と言い、結局、2人で逃亡することにしました。そして、州の役人と共に洛陽をでると、太史慈は密かに1人で引き返して郡の文書を提出したのでした。この1件で太史慈の名は上がりましたが、州からは恨まれることになったため、太史慈は遼東に身を隠していました。

 孔融は太史慈のことを知るとなかなかの人物だと考え、太史慈が身を隠している間にしばしば太史慈の母親に贈り物をしていました。太史慈が遼東から戻ってくると、母は「お前と孔北海(孔融が北海の相だったことから姓+任地で呼んだもので、豫州を預かった劉備を劉豫州と同じもの)さんとはまだ面識もないというのに、孔北海さんは旧くからの知人以上に心のこもったお心遣いを頂きました。今、あの方は賊の包囲を受けていると聞きます。お前はあの方のもとに駆けつけ、力になりなさい」と命じました。

 太史慈は母のもとに留まること3日で家を出ると、まだ包囲の甘い賊の包囲を抜けて城に入りました。

 孔融に目通りすると、太史慈は兵を率いて賊に突入したいと願い出ます。しかし、孔融は許さず、救援を待つことを命じました。しかし、どこからも救援がないうちに、管亥の包囲は厳しくなります。孔融は平原に進出していた劉備に助けを求めたいと願いましたが、既に使者を送ることは難しくなっていました。

 誰もが脱出は不可能だと言う中、太史慈は再び孔融に目通りすると、救援を求める使者に立ちたいと強く願います。太史慈の熱意に根負けした形の孔融が認めると、太史慈は旅装を整え、食料を積んで準備を進めました。

 夜が明けると、太史慈は騎乗して弓を手に取り、的を持たせた2人の騎兵を率いて城を出ます。


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2020年10月24日

三国志 孔融の危機1 北海の孔融、黄巾賊討伐に向かうも、賊軍に包囲されてしまう 同郷の太史慈が救援に向かう

 同じ頃、袁術の求めに応じて、高唐に田楷を、平原に単経を、発干に陶謙を駐屯させたのですが、すべて袁紹の命令を受けた曹操に破られたとあります。公孫瓚は劉備を別部司馬に任命して、劉備に趙雲を随行させて青州方面の田楷の援軍に赴かせています。

 先に、公孫瓚は有能な人物を取り立てず、凡庸な人物ばかりを重用したことを記しましたね。なぜ盧植のもとで学ぶ期間、博打や遊びにうつつを抜かしていた劉備がこのような役目を与えられたのか、公孫瓚に聞いてみたい気がしますね。

 その劉備に、大きな運命の転機が訪れます。

 北海郡の孔融が黄巾賊の討伐に向かったところ、逆に管亥率いる賊軍に包囲されてしまう、という事件が起こったのです。

 窮地に陥った孔融のもとへ、太史慈が馳せ参じます。

 太史慈は字を子義といい、東萊郡出身で、身長7尺7寸(焼く177cm)、見事なひげを生やし、腕が長く弓は百発百中という人物です。若い頃から学問を好み、郡の役所に仕えたというので、大家出身ではないし、孝廉や茂才に挙げられるような、際立った才能で目立っていたわけでもないようです。

 ある時、東萊郡と青州の間で意見の食い違いが起こり、どちらが正しいか決着が付かないことが起こりました。先に朝廷に上奏したほうが有利、という状況になったのですが、州からの上奏は既に発送されており、郡の太守は使者に立つ者を探していました。選ばれたのが、当時21歳だった太史慈です。彼は昼夜兼行で洛陽に急行しました。太史慈が役所の門に辿り着いた時、州の使者も門にあり、取り次ぎを求めているところでした。

 太史慈はその相手が書簡の取り次ぎを願っていることを知り、「文書に誤りがないか、よく見るのが良いと思うぞ」と言い、相手が文書を持ってくると、懐に隠した小刀で切り裂いてしまいました。しかし、この経緯が伝わってしまうと、太史慈は州の文書を勝手に破損したことになります。





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2020年10月23日

三国志 易京の戦い2 麴義は公孫瓚の騎兵隊を排除すると、公孫瓚の本隊をも打ち破る 油断した袁紹の思わぬピンチ

 公孫瓚は麴義の軍が少数であることを見ると、ただちに騎兵を動かして粉砕しようとします。麴義の塀は楯の下に伏せて動かず、敵が数十歩の距離に迫ったところで一斉に立ち上がって前進し、正面から受けるのと同時に、大量の弩が放たれます。至近距離からの攻撃に、矢に当たった者は次々と打ち倒されました。

 麴義は騎兵を排除すると、敵陣に向かい、公孫瓚の任命した冀州刺史の厳綱を斬り公孫瓚の本陣を落とします。公孫瓚軍は敗北して階橋まで敗走しますが、しんがりの部隊はここで反転し、橋の上で麴義の軍と戦います。しかし、麴義はまたもやこれを撃破、公孫瓚の本営にまで至りました。公孫瓚軍は散り散りになって逃げます。

 後方に位置する袁紹は、橋から10里あまりのところでウマから降りてくらを外します。公孫瓚は敗北したと見た袁紹は、数十の弩隊と大戟を手にした歩兵100人あまりを従えただけでした。ところが、そこに逃走中の騎兵2000ほどが突如来襲したのです。

 騎兵隊は袁紹を幾重にも包囲し、弓矢を雨のごとくに射ます。別駕従事の田豊が袁紹を助けて垣の隙間に避難させようとします。しかし、袁紹は兜を地面に叩きつけると、「大丈夫たるもの、突き進んで戦死するのが当然だ。垣の隙間に逃げ込んでまで生き残れるか」と啖呵を切りました。

 そんな気概があるなら董卓との戦いで発揮すればよかったのに、と思ってしまいますが、この時味方の軍から弩が一斉に発射されて公孫瓚の騎兵隊にダメージを与えたこと、騎兵隊はまさかこの小部隊に袁紹がいるとは思わなかったこと、更に麴義の軍が迎えにやってきたことから、騎兵隊は撤退し、袁紹は危機を脱しました。

 一連の戦闘を、界橋の戦いと呼びます。

 公孫瓚は敗走し、公孫範と共に渤海へ逃走しました。

 袁紹軍は公孫瓚を追撃し、公孫瓚の籠もる故安城を数万の軍で包囲します。公孫瓚は包囲を耐え抜き、逆に袁紹軍は撤退に追い込まれました。今度は、撤退する袁紹軍を公孫瓚軍が追撃し、失地を回復していきました。


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2020年10月22日

三国志 易京の戦い1 勢力を伸ばし、袁紹を包囲しようとした公孫瓚に対し、袁紹は鉅鹿の動揺を押さえて直接対決に撃って出る

 こうした考えもあり、公孫瓚が取り立てるのは凡庸な者が多かったとあります。中でも、元占い師の劉緯台、絹商人の李移子、商人の楽何当とは義兄弟の契りを結び、公孫瓚が長兄で「伯」、3人が「仲」、「叔」、「季」と呼んでしました。あるいは、これが劉備、関羽、張飛が義兄弟を名乗ったという三国志演義のベースとなっているのでしょうか。

 全体的に、公孫?が袁術派に与していることが見て取れる上奏ですね。興味深いのは、袁紹が劉虞を擁立しようとした点については触れられていないことです。なにせ、劉虞を擁立した後で董卓を倒せば、袁紹たちに残されているのは献帝を廃立ないし殺害して劉虞を唯一の天子にすることだけでしょう(自分たちで擁立した劉虞を殺すという手段も無いわけではないのでしょうが)から、この点は上奏してよかったように思います。

 また、上奏と並行して田楷(でんかい)、厳綱(げんこう)、単経(ぜんけい)を青州・冀州・?州の刺史に任命し、袁紹と全面対決に入ります。そして、自らは階橋に進出し、袁紹に圧力を加えました。

 袁紹は董昭を派遣して公孫瓚に与しようとしていた鉅鹿を抑えさせるのと並行して、広川において公孫瓚を迎え撃ちます。

 公孫瓚の軍は中央に歩兵3万、その両脇を騎兵が固める布陣です。この騎兵は、過去触れたとおり、公孫瓚に従って何度も異民族と戦ってきた精鋭部隊でした。

 一方、袁紹は軍を前後2つに分け、その前方の軍を麴義(きくぎ)に指揮させ、後方に自らが率いる数万の軍を配置します。

 麴義は西涼出身と見られる人物で、韓馥に仕えていましたが、袁紹に鞍替えしていました。これまで述べてきたとおり、西涼は異民族との国境で、何度も戦争が起こっていた地域です。そのため、?義は羌族の戦い方をよく理解していました。それは即ち、騎兵との戦い方が身についていた、ということです。彼は指揮下の部隊を楯を構えた兵士800と1000の強弩隊の2つに分けて公孫瓚の攻撃に備えました。


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2020年10月21日

三国志 袁紹が非難されるべき10の理由 公孫瓚は10の理由を挙げて袁紹を避難するが、自身は有能な人士は陥れて昇進させないようにしていた

1.何進に仕えた際、媚びへつらうばかりで正しい人物を推挙せず、丁原に孟津を焼き払わせて董卓を招き寄せ、戦乱のおおもとを作ったこと

2.董卓が洛陽に入って皇帝を人質にしたのに袁紹は皇帝を救うこともせず、割符を放置して逃げ出し、爵位任命の誓約に背いて皇帝の期待を裏切り忠節を尽くさなかったこと

3.袁紹は渤海太守となると、密かに戦馬を集め、董卓を攻撃する際に親族に連絡しなかったため太傅袁隗と太僕袁基のいち拾を殺すことになったこと

4.袁紹が挙兵して2年が経とうとしているが、国家の危難を顧みず、自分の領土の拡張に務め、資材や食料をもっぱら不必要な出費に充て、富裕な家をしいたげ金を取り立てているため人びとが嘆き悲しんでいること

5.韓馥の窮状につけこんでその位を盗み取り、天子様のご命令と偽って詔令をくだし、金印や玉璽を作って皇帝であるかのように振る舞っていること

6.郡県を攻撃し、略奪行為を働いていること

7.袁紹は些細な怒りで共に挙兵した元の虎牙都尉の劉勲に罪を着せて殺したように、悪人を信任して功績有るものを殺害していること

8.理不尽に他者を弾劾し、金を取り立てていること

9.子の貴賤は母の貴賤によるべきであるのに、端女から生まれた袁紹が後継者となるのは不適当で、袁家の名誉を傷つけていること

10.周昂に董卓攻撃において功績の大きかった孫堅の地位である豫州刺史を盗み取らせ、孫堅の糧道を断ち切って漢中に侵入できなくしたこと


 現代的な価値観からは、9番目の理由はとても承服できませんし、孫堅の糧道を断ったのは事実に反していると言わざるを得ないでしょう。

 このように様々な理由を挙げて袁紹を避難する公孫瓚ですが、三国志公孫瓚伝に引く『英雄記』には、公孫瓚は有能な役人の子弟がいれば、必ず圧迫して困窮させたとあります。その理由を聞かれた公孫瓚は、「役人の家の子弟や立派な人物を取り立てて風紀にしてやっても、みな自分がそのような官職に付くのは当然だと考え、感謝しないだろう」と答えたそうです。盗人たけだけしい気がしますね。


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