2020年07月14日

三国志 竇武たちの失敗 桓帝が死に霊帝が即位すると、外戚となった竇武は陳藩と結んで宦官誅滅を図るも、露見して自殺に追い込まれる

 桓帝は政治上も問題がありましたが、世継ぎを遺さずに死んだことも問題でした。竇皇后は父の竇武と善後策を図り、章帝の玄孫で12歳の劉宏(りゅうこう)を擁立しました。これが霊帝です。

 竇武は建国の功臣竇融の玄孫という出自で、若い頃から学問に励み、功績もあげていました。165年に娘の妙が後宮に入ったため、そこからわずか3年で皇帝の持つ巨大な権力を代わりに用いることができる立場に置かれたのでした。ただ、竇武は梁冀とは異なり、身を慎み、賄賂を拒み、有能な人物を推挙するといったように、臣下としての節度をわきまえた行動を取り続けました。

 その竇武は陳藩と結び、宦官誅滅を図ります。彼らは竇太后の許可を得て、権力を振るう中常侍の管覇と蘇康を誅殺することに成功します。

 続いて彼らは宦官のトップの曹節を始めとする多くの宦官を除こうとしますが、竇太后に許可を求める上奏文が宦官側に漏れてしまいます。

 あらゆる上書は宦官を経て皇帝や皇后に上奏されるようになっていました。長楽五官史の朱?は上奏文を盗み見ると、そこには誅殺すべき者のリストの中に自分の名前も記されていることを発見してしまいます。

 問題がある者だけが誅殺されるならともかく、罪もない者まで罰せられるのは許せぬと、彼は仲間の宦官たちに情報を伝えたのです。

 9月、曹節は霊帝を徳陽前殿に移して変事に備えさせ、勅命を偽って王甫を黄門令に任じます。王甫は兵を率いて宮中へ至ると、竇皇后から印綬を奪って宮殿を閉ざしました。こうなっては、竇武たちに勝ち目はありません。竇武は自殺に追い込まれ、陳藩は獄に送られ、直ちに殺害されました。竇太后は死ぬまで幽閉され、死後は死体を市に晒されることになります。

 こうして竇武たちの反宦官の動きは、宦官側の勝利に終わったのでした。

 翌年の169年、 前漢建国の功臣張耳の子孫に当たる張倹が下僕を解雇したのをきっかけに、宦官側は大掛かりな巻き返しに出ます。かつて張倹は中常侍の侯覧の一族の不正を正すべく、高欄の母を処刑すべしとの上奏を行わせたことがあり、侯覧の恨みを買っていました。


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2020年07月13日

三国志 第1次党錮の禁 李膺ら清流派の知識人たちは宦官(濁流派)と激しく対立、宦官は皇帝を動かして知識人を弾圧する

 朝廷において激しく宦官を攻撃したのが李膺です。李膺はそれ以前に河南の長官だった際、宦官の張譲の弟の張朔を張譲の邸宅から引きずり出して拷問を加えて自供を引き出し、直ちに処刑したこともある硬骨漢です。宦官は李膺を恐れて外出すら憚るようになったと伝えられます。

 李膺の下には多くの知識人が詣で、面会の叶った者は「龍門に登った」(登龍門の語源)と言われるほどでした。

 165年には、梁冀誅殺に功績のあった具瑗の兄の具恭は腐敗を上奏されて逮捕され、具瑗もまた降格されます。また、同時に左悺とその兄の左称の収奪が問題とされて2人は自害しました。

 腐敗に対する攻撃に対し、宦官たちは綱紀粛正するのではなく、逆襲にでます。宦官たちは皇帝に近いという立場を活かし、「李膺が太学の学生らと徒を組んで朝廷批判を行っている」と皇帝に吹き込みました。このことから、李膺ら清流派の人々は党人と呼ばれるようになります。宦官(濁流派)と党人(清流派)の争いは、166年に李膺たちが中常侍の専横を糾弾したことをきっかけに、破局へ向けて突き進みます。批判を受けた宦官たちは、「党人たちが朝廷を誹謗した」と主張し、桓帝は宦官の主張を認めてしまったのです。

 李膺を始めとする、宦官に批判的な者200人あまりが逮捕されました。党錮を裁くことになった太尉の陳藩は、「李膺たちは忠義の臣であり、たとえ罪があるとしても恩赦に値する。あやふやな罪状で拷問にかけるなど考えられぬ」と言って審理を拒否しましたが、宦官たちのバックに居るのは皇帝ですから、抗するべくもありません。逮捕された清流派たちは終身禁固刑とされました。宦官の専横に反対する勢力は壊滅的な打撃を被ったのです。これを第1次党錮の禁と呼びます。

 その2年後の168年に桓帝が世を去ります。後漢書の讃に、「桓帝の政治は5人の寵臣に移り、李固や杜喬が刑死するなど、過酷な刑罰がみだりに行われた」と批判的に述べています。及第点はあげられそうにありません。


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2020年07月12日

三国志 宦官専横の源流 桓帝は権力を壟断する「跋扈将軍」梁冀を誅滅するため宦官を利用し、誅滅を達成した宦官が重用されるようになる

 梁冀は人事も握っていましたから、朝廷の高官にも梁冀の息がかかった者が大勢います。その数少ない例外として李固がいましたが、彼は桓帝即位からまもなく、梁冀に誅殺されてしまいます。

 桓帝は梁冀の専横の下、何の自由もなく暮らしていました。しかし、皇帝には梁冀と言えども手が出せない聖域があります。それこそが後宮です。

 後宮には大勢の女性がいるのは勿論、女性たちを世話するために大勢の宦官もいました。彼らの論功行賞は後宮内部で行われます。また、若くして死んだ皇帝が続いたことから宦官は文書の処理などを通じて絶大な権力を持つようになっていましたが、その権力の淵源は宦官そのものではなく皇帝権力を代替することによって生まれたものです。ですから、宦官にとっては梁冀よりも皇帝と後宮の女主人たる皇后の方が敬い恐れるべき対象でした。

 159年に梁冀の妹の梁皇后が世を去り、後宮に梁冀の力が及ばなくなったことを奇貨とした桓帝は、厠に立った際に宦官の唐衡に、梁一族に恨みを持つ者がいないか尋ねます。そして、推挙されたのがいずれも宦官の単超、左悺、徐璜、具瑗です。彼らは血判状を作って覚悟を固めると、梁冀邸を軍で囲み、梁冀を自殺に追いやりました。

 勿論、軍を動かすような大掛かりな作戦ですから、準備段階で露見すれば死どころか一族が滅ぼされることは避けられません。彼らは文字通り、命がけで皇帝の望みを叶えたのです。桓帝は、恩人である宦官たちに最大限に報いました。実子を持てない彼らに養子を持つ権利が与えられたり、親族が高位高官に取り立てられたりした結果、今度は宦官の力が他を圧するようになります。

 力を得た宦官たちは、得た権力で私利私欲を追い求めます。その腐敗ぶりに腹を立てた知識人たちは、宦官とそれに連なる一派を濁流派、自分たちを清流派と称し、対立するようになっていきました。


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2020年07月11日

三国志 三国志前夜 外戚と宦官の争いが後漢を徐々に衰えさせていったことに鑑み、党錮の禁から流れを追う

 黄巾の乱に始まり、天下が再び統一されるまでの流れは、基本的には歴史をなぞっています。しかし、物語化する中で、多くのシーンが姿を変えます。それは、基本的にこの物語が講談として、聴衆相手に語りかけられるだったことと無関係ではありません。豪傑同士の一騎打ちも、諸葛亮の冴え渡る計略も、聴衆を喜ばせるためにアレンジされたものです。無名だったり劉備と絡まないところで現れた見どころのあるシーンは著名な部将のものに変更されてもいます。

 主役の活躍をひきたてるため、悪役とされた者は実際異常に悪どい存在にされ、その末路は悲惨なものになります。ですが、歴史の流れは変わることなく、悪役に位置づけられていた魏を引き継いだ晋が勝利することで、溜飲を下げた思いは巨大な悲しみに取って代わられてしまうわけですが。

 三国志演義は講談として発展し、子供たちは劉備や諸葛亮が勝利すると拍手喝采し、曹操が勝つと涙を流して悔しがったそうです。物語としての三国志は、最高級のフィクションとして完成していると思います。勿論、私もこの物語としての三国志が大好きです。

 ただ、このブログでは、三国志演義についても触れながら、基本的には正史としての三国志の流れを紹介しようと思います。

 三国志演義は物語の始まりとして黄巾の乱をもってきます。これは、外戚の専横を排除するために皇帝が宦官に頼り、宦官は命を賭けて皇帝に権力を取り戻したという流れを説明しなくて済む、考え抜かれたものです。しかし、宦官と外戚の争いこそが後漢を滅ぼしていったという歴史的な流れがあることに鑑み、このブログでは党錮の禁こそが三国志前夜と考えることとし、冗長にはなりますが党錮の禁から語り起そうと思います。

 党錮の禁は、2度に渡って行われた知識人の弾圧事件です。

 第1次党錮の禁は、桓帝の時代に起こったものです。桓帝が即位した時期は、外戚である梁冀の力の絶頂期にあたります。桓帝の前の質帝は梁冀の専横を嫌い、跋扈将軍と呼んだことから、激怒した梁冀は質帝を毒殺し、まだ12歳の桓帝を皇帝に据えました。



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2020年07月10日

三国志 書物としての『三国志』 歴史書としての

 外戚が力を持ったことで、皇帝が外戚を排除するためには宦官に頼るしかありません。なにせ、彼らは後宮にも自由に出入りができますから、外戚も官僚も入ることができません。宦官の権力の淵源は皇帝であって3公や外戚にはありませんから、宦官は飛ぶ鳥を落とす勢いの外戚ではなく、皇帝に従うのが彼ら自身のためにもなります。

 こうして、無能な皇帝が即位し、権力は己の利益しか考えない外戚か宦官に握られたのです。後漢は低空飛行のままでよくもっていた、とでもいうべきなのかもしれません。

 後漢は崩壊し、分裂の時代に入っていくわけですが、三国時代について書き始める前に、まずは書物としての『三国志』について記しておきましょう。

 歴史書としての三国志は、三国時代が終わった直後の晋に成立しています。それを著したのは蜀の遺臣の陳寿で、事実に忠実に歴史をなぞっています。史記がかなり怪しげな物語も採用したのに対し、三国志は事実にこだわったため、物語性はほとんど無く、簡潔な名文として知られています。あまりに事実にこだわったためか、簡潔に過ぎ、後に東晋の裴松之が怪しげな文献も含めて莫大な注を加えています。今私たちが見ている三国志の全てはこの裴松之が注を加えたものが下敷きになっています。

 しばしば『正史』と言われますが、これは内容の正確さを保証はしません。国家が正当な歴史であると認めたものであり、当然、史書が成立した際の国に都合の悪いことは書かれません。何が書かれていないのか、その例は後に見ることとなるでしょう。

 日本でよく知られているのは横山光輝のマンガや、吉川英治の『三国志』のように、劉備を、そして劉備死後は諸葛亮を主人公にした物語としての三国志、つまりは『三国志演義』でしょう。その成立は、三国時代よりも1000年以上も後の元末から明初の頃です。



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