2020年02月23日

後漢 赤眉の皇帝擁立 赤眉は軍の中にいた式侯劉萌の子、劉盆子を皇帝として擁立する 劉秀、兄の仇の朱鮪が守る洛陽を攻撃する

 皇帝が立てば、皇后も冊立されます。若い頃から「妻を取るなら陰麗華」と言っていた劉秀は陰麗華を皇后に冊立しようと望みましたが、既に郭氏が男児劉彊を生んでいたため、皇后は郭氏となりました。当然、劉彊が皇太子となります。

 同じく6月、赤眉は軍中にいた斉の巫の言葉を受けて天子を立てることとしました。巫は呂氏の乱鎮圧に大功を立てた朱虚侯劉章を祀った際に、王朝を建てるべしとの託宣を受けた、と主張していました。

 そして、軍中にいた劉章の子孫を名乗る者70人余りの中から、最も血筋の近いと考えられる者3人を選び、クジで天子を決めました。それが、15歳の劉盆子です。

 劉盆子は式侯劉萌の子で、赤眉が式を通過した際に兄弟と共に連れ去られていました。赤眉が臣と称して傅くと恐怖で泣き出しそうになり、持っているように命じられた苻を齧って折ってしまった、と伝えられます。自ら反乱に身を投じたわけではない劉盆子にとって、さぞ居心地の悪いものだったでしょう。

 赤眉は劉盆子に漢の火徳を示す赤い単衣と赤い頭巾を着せ、年号を立てて建元としました。そして役職も定めて王朝の形だけは整えました。しかし、丞相となった徐宣は県の獄吏を務めただけ、御史大夫となった樊崇は文字を読めないといった有様で、国を支える統治機構は全くできていませんでした。

 結局、赤眉は王朝を名乗りながら劫掠を続ける野盗集団から抜け出してはいなかったのです。

 さて、劉秀は即位翌月の7月には三公以下の人事を固めます。大司徒ケ禹、大司馬呉漢、大司空王梁、という顔ぶれでした。
 体制を固めた劉秀は、直ちに兵を発して洛陽を囲みます。

 洛陽は、新市の指導者の1人で劉玄に長く仕えてきた大司馬朱鮪が守っていました。朱鮪は劉縯誅殺を進言した人物でしたね。

 朱鮪が漢復興にかける思いは他の者よりも厚かったようで、劉玄が自分を含む功臣を王に封じようとしたところ、劉氏以外を王にすべきではないと反対、封じられた膠東王の地位を辞退しています。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月22日

後漢 光武帝即位 各地で天子を自称する者が現れ、諸将は即位を勧める 最終的に、讖緯に基づいて劉秀は即位(後に光武帝として知られる皇帝)

 少々先走りました。26年に戻りましょう。

 各地で天子を名乗って自立する動きが出ていることを受けて、諸将は劉秀に即位を勧めます。しかし、劉秀は認めませんでした。
状況を変えたのは、讖緯です。

 関中から彊華という儒者が『赤伏符』なる符命を携えてやってきます。そこには「劉秀が兵を発して不道を捕えれば、四夷は雲集し、龍は野で闘う。四七の際に火は主となれ」と書かれていました。

 四七とは4×7で28を示し、この年が漢成立から228年目に当たることから、「今年」を意味しています。火とは、漢が火徳とされたことを受けてのものですから、「火は主となれ」とは漢を復興させよ、ということです。つまり、劉秀に漢の天下を取り戻せ、との符命なのですね。

 諸将は再び即位を説きます。王莽が符命を利用して簒奪したところでみた通り、符命には天の意志があるとされていました。

 劉秀は即位を決断します。6月、小高い祭壇を作ると、犠牲を焼いて天を祀りました。また、他の神も礼拝し、天が劉秀に命をくだしたため、即位すると宣言しました。

 その際、劉秀は自分の功績として、王莽が簒奪したことに対して兵を興して昆陽で勝利し、王朗と銅馬集団を河北で誅し、天下を平定して海内は恩を蒙った。上は天地の心にあたり、下は庶民の帰るところとなったと言っています。

 新たな皇帝が即位することを天地に報告する儀式については、王朝が続いている場合については漢で何度も行われてきました。しかし、新しい王朝が立った場合必要とされる告代祭天(こくだいさいてん)の儀式はまた別のものす。

 告代祭天は、平帝の時期に定められたものです。平帝期と言えば、かの王莽が大司馬として実権を握っていた時期でしたね。当然、この儀式の詳細を定めたのは王莽になるのです。皮肉なことに王莽の定めた礼により王莽を滅ぼした勢力の者が即位したことになります。

 劉秀はこうして即位し、元号を建武と改めました。これが後世から光武帝と呼ばれる皇帝です。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月21日

後漢 河南の実力者劉揚の反乱 妻の一族のトップ、真定王劉揚は自ら天子になろうと讖緯をでっち上げ反乱を起こすが誅殺される

 血筋から言えば、劉揚もまた皇帝となってもおかしくない存在でした。いえ、真定王の直系であることを考えれば、劉秀よりも前漢の皇帝の後を襲うのに相応しい存在でした。

 こうしたことから、劉揚は自ら天子となろうとしたのです。彼は「赤九之後癭揚為主」との讖記をでっち上げます。

 赤は火徳の漢を、九は9代目を示しますので、前半は漢の9代後の意味になります。そして後半は、癭(瘤)のある揚が主となる、という意味です。劉揚は首筋に瘤がありましたから、この讖緯の意味するところは劉揚が天子となる、ということですね。彼は天子となることを考え、劉秀に服していない者たちと連絡を取り始めたのです。

 劉秀からすれば到底看過できない事態ですので劉揚を召喚しようとしますが、劉揚は城門を閉ざして拒否しました。

 そこで、劉楊の外甥に当たる前将軍耿純を真定に派遣します。劉揚は警戒して会おうとしませんでしたが、耿純が遜った態度を崩さなかったことから、面会を承諾します。耿純はこの機会を逃さず、劉揚とその一族を捕らえ、誅殺しました。

 劉揚を懐柔するのではなく誅殺したということは、既に劉秀の力は確固たるものとなっており、劉揚の力は不要になっていたことを意味しますね。

 皇帝との血縁を背景に、劉一族からは少なからぬ者が天下を伺っていましたので、劉揚は同族との争いの皮切りに過ぎませんでした。
同じく26年には、梁王劉永へ討伐軍を送っています。

 劉永は梁王劉立の子です。劉立は平帝の外戚衛氏と親しかったことから、衛一族が王莽に滅ぼされた際に、共に粛清されていました。こうしたこともあり、新が滅んで劉玄が長安に入ると、劉玄に謁見して梁王に任じられていました。

 劉玄の政治が乱脈を極めるようになったことを見て取った劉永は独自の動きを取るようになっており、天子を名乗って自立したのです。

 劉秀は蓋延を派遣して滎陽を囲ませます。城は陥落しましたが、劉永は逃れて戦い続けます。内紛などもあり、29年に劉永は部下に殺害されますが、一部の部将たちは劉永の息子の劉紆を立てて抵抗を継続、最終的には32年に鎮圧されるまで戦いは続くことになります。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月20日

後漢 河北の掌握 劉秀は劉玄により派遣されていた謝躬を排除することに成功、長く思いを寄せいていた陰麗華を故郷から呼び寄せる

 宣言どおり、劉秀は賊を破ります。賊は北方の隆慮山という山に逃げ込みました。謝躬は魏郡太守の陳康に鄴を守らせ、自ら賊を攻撃します。しかし、追い詰められた敵は必死に戦い、その鋭鋒には当たるべからざる勢いがありました。謝躬は敗れ、鄴に戻ります。

 ところが、この間に劉秀は呉漢と岑彭に鄴を襲わせていました。城を囲んだ呉漢は城内へ使者を送り「上智は危機にあって幸運に頼らず、中智は危うい状況で功績を挙げ、下愚は危険な状況になっても気づかずに安穏として自ら滅ぶ、と言われます。現在、長安は乱れて各地で騒乱が起こっていること、貴公の知る通りです。蕭王(劉秀)の軍は強く、兵士はよく従っています。河北が彼の下に帰すこと明らかでしょう。謝躬は蕭王に背き、衆望を失っていること、貴公の知る通りです。今、貴公は鄴に孤立し、ただ滅ぶのを待つばかり。義の立つところはなく、節義も守りようがありません。城門を開いて我軍を受け入れ、禍を転じて福となし、下愚の敗北を免れて中智の功績を挙げましょう」と説得します。

 陳康は説得を受けて降伏しました。僅かな手勢とともに帰還した謝躬は捕らえられ、平伏するも呉漢は「何故、鬼(日本の感覚では幽霊)と語らねばならぬ」と言い、謝躬を誅殺しました。これで、劉秀は河北における政敵を排除したことになります。

 同じく25年、劉秀は故郷の南陽から、陰麗華を貴人として迎えます。この女性は近隣でも有名な美女でした。「仕官するなら執金吾、妻を娶るなら陰麗華」と嘆じて彼女との結びつきを望んでいました。なお、若き日の劉秀は、長安に遊学した際に見た執金吾(首都の警備長官、2000石)の豪華な行列をみていたため、上記のセリフが出たとのことです。

 陰麗華とはまだ河北に来る前に結ばれてはいたのですが、遠征の際には故郷に残していました。ようやく落ち着いたので呼び寄せたのです。

 26年、劉秀は妻の縁戚である劉揚を誅殺します。
 
 劉揚は河北で王朗が劉林に擁立された際、王朗に与していました。しかし、説得を受けて劉秀へ鞍替えし、劉秀は結びつきを強めるために彼の姪を娶ったのでしたね。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月19日

後漢 公孫述 蜀の公孫述、漢の将を自称する盗賊たちの狼藉を見て、自らも将軍と偽って賊を斬り、蜀で自立 国号を成家とし、3公を置く

 4月、蜀では公孫述が王を称します。

 公孫述は父の公孫仁が成帝の侍御史だった縁で郎となったことをきっかけに役人の道を歩み始めました。公孫述は並外れた能力の持ち主だったようで、父親が教育のために派遣した者は「公孫述は教えを受けなければならないような者ではない」と帰ってきたですとか、能力を見込んだ太守から5県を兼務させられても仕事に滞りはなく、鬼神と称されたそうです。新では蜀の太守(新の制度では卒正)となっていました。

 新末からの混乱に乗じて、四川では漢の将を自称する宗成と王岑が挙兵します。公孫述は蜀の豪族を集めて、自分は輔漢将軍と蜀郡太守兼益州牧に任じられたと言うと、宗成らを討って蜀で自立したのでした。

 劉玄は巴蜀を手中に収めるべく、軍を送ります。しかし、公孫述は綿竹で劉玄の軍を破りました。そして、4月に蜀王を称し、国号を成家(首都が成都のことから)と定めました。更に、25年には天子を名乗り、大司馬、大司徒、大司空の3公を置き、元号も龍興と改めました。そして、黄色を尊んだ新に代わる王朝として、色は白を尊ぶことにしました。

 25年、劉玄の力が削がれる出来事が起こります。劉秀とは別に河北へ派遣していた謝躬の軍が失われたのです。

 謝躬は劉秀と共に邯鄲を攻めた際、麾下の軍が邯鄲を略奪したことから劉秀に嫌われていました。劉秀は謝躬と陣を別に分けたほどです。ただ、露骨に敵視することは、劉秀にとっても大変なリスクになりかねません。そこで、劉秀は謝躬の勤労ぶりを讃えることで懐柔していきました。

 邯鄲攻略後、しばらくして謝躬は手勢数万を率いて?に戻ります。ここでも謝躬の軍は狼藉を働いたようで、民衆はその横暴に苦しみました。

 劉秀は一計を案じます。そして、「私は南方の反乱勢力を謝犬(河南省)に追い込み、必ずや勝利します。そうすれば、近隣の賊は驚いて逃げるでしょうから、そこを貴方の軍で攻撃すれば、散り散りになって逃げた敵は必ずや捕虜となるでしょう」と伝えました。謝躬はその作戦に賛同します。


面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^

人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村
posted by 仲井 智史 at 12:00| Comment(0) | 後漢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
面白いと思ったら押して下さると嬉しゅうございます^^
人気ブログランキングへブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村