2019年11月18日

前漢武帝後 儒家官僚の問題1 「古代にはこれほど華美なものはなかった」ことを理由に奢侈に反対 鉄官すら廃止して農村へ帰せと主張する

 元帝は頁禹なる儒家官僚を招聘します。貢禹は2度仕官し、1度は病で、1度は譴責を受けて辞任していました。元帝は齢80歳近いこの老人を召して諫議大夫とします。

 「諫」と「議」が入る役職であることから推察される通り、皇帝を諌めるのが仕事です。

 貢禹は早速儒教に基づく政策を提言します。まず、宮廷費の抑制です。宮廷の衣料は官営の工場で作られていたのですが、『秦漢帝国』によれば「それらは莫大な出費を要するもので、斉の三服官の作工はそれぞれ数千人、年間経費は数億銭であり、蜀と広漢の工官もそれぞれ五百万銭、少府の考工室のそれも五百万銭を要していた」というものだったそうです。

 確かに奢侈には見えますが、もし国家が安定しているのであれば、中央が集めた税を地方に再分配する手段にもなったのではないかと思います。奢侈を悪であると断定するのは経済的には無意味どころか有害だと思いますが、儒教倫理では悪なのです。

 衣料費の削減だけではなく、東宮の経費削減、後宮の女官の削減、狩猟地を耕作用に貧民へ開放することなどが進言されています。

 賛同できるものもあれば賛同できないものもありますが、これらを行うべき理由が「古代にはこれほど華美なものはなかった」となるととても賛成できません。もちろん、国家を傾けるような奢侈は激しく非難されるべきでしょうが。

 前44年には、更に過激な提案がなされます。この時、貢禹は81歳で、御史大夫に昇進していました。民の負担軽減を図ったこと、や官婢を解放して平民に戻すことといった非の打ち所のない政策もあるのですが、年間10万人が働く鉄官を廃止して労働力を農耕へ移すことというのは感心しません。

 儒教は農本主義で、農業こそ国の基盤としています。しかし、鉄の生産は農具の確保にも欠くことのできない産業です。鉄生産を放棄してその労働人口を農業に振り替えても、総合的な生産力は低下するでしょう。


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2019年11月17日

前漢武帝後 外戚王氏 宦官と並び、外戚王氏もまた列侯に封じられるなど力を伸ばす 更に、儒家官僚も増加し、3者の争いが激しくなる

 宦官は生殖機能を失っていますから、家族に権力を握らせるようなことはありません。基本的にはどれだけ力を握るようになってもそれは一代限りのことなので、皇帝からすれば「使い勝手の良い」集団だったのです。しかし、彼らには同じ宦官との間に極めて強い紐帯が結ばれていました。なにせ、他に彼らと付き合ってくれる相手などいないのですから。

 一方で、彼らが力を握れば握るほど、反発は激しいものになります。石顕は自分を脅かす者は排除したことがそれに拍車をかけ、官僚は宦官排除を考えるようになっていきます。

 宣帝から元帝を遺嘱された前将軍・光禄勲の蕭望之は周堪らと宦官の専横を皇帝に訴えます。しかし、皇帝は宦官の重用を止めはしませんでした。

 そもそも元帝が宦官を頼ったのは、彼が政治の場で力を持っていなかったからです。更に言うのであれば、それに加えて自力で海千山千の高官たちを御すための努力をしようとしなかったからです。それには彼は病弱だったという事情があるのかもしれません。しかし、専制君主として失格であると言えるでしょう。

 更に、元帝の皇后の王一族も政界に進出します。皇后の王政君は元帝がまだ太子の時に後宮に入り、男児を生んでいます。元帝が即位すると、父の王禁は列侯に封じられました。

 これまでも霍光のように外戚が力を握ることもあったわけなので、この時点においてはとりたてて騒ぐ話ではないのかもしれません。ここでは、漢王朝を衰退させることになる外戚と宦官が共に歴史に顔を出すようになったことを押さえておきましょう。

 宣帝が危惧した儒家官僚の登用も増えていきます。宣帝が五経の異同を決裁したのは、既に儒家が大きな存在になっていたからに他なりません。これも、孝廉を推挙するようにしたことの影響なのでしょう。上流階級全体に儒教が浸透していたことから、政権内にも儒教が蔓延るのは不可避の情勢だったのかもしれません。

 そして、早速宣帝が危惧した儒学者の悪いところが出てきます。


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2019年11月16日

前漢武帝後 元帝即位 宣帝は儒教かぶれの元帝を嫌っていたが、孫が生まれたため廃太子を取りやめる 宦官勢力の増長

 許皇后との間の子で早々に皇太子に立てられていた劉奭が即位します。これが元帝です。

 元帝は若い頃から儒学を好み、父の宣帝が法家官僚を用いるのを見て、儒家を登用するよう進言したことがあります。宣帝は「国は覇道(法家)と王道(儒家)を共に用いることにしている。それなのに、徳を唱えるばかりの儒家に傾倒するとは何事か!しかも、儒家は古代を称揚して現代に難癖をつけるだけで、今まさに何が必要なのか分かっていない。儒家になど、政治を任せられるか!」と顔色を変えて怒ったことがあります。

 そして、「漢を乱すのは皇太子であろう」と嘆きました。かと言って、皇太子を代えるとなると大変な混乱がつきまといます。宣帝としては痛し痒しだったのでしょう。それでも廃太子を決断しようとした宣帝でしたが、元帝に男児が生まれたことから、そのまま元帝が即位することになったのでした。

 宣帝の遺詔により元帝を支えることになったのは、大司馬と車騎将軍を兼ねる史高、儒家で前将軍と光禄勲を兼ねる蕭望之、そして光禄大夫の周堪です。彼らは尚書も司りました。もっとも、前述の通り尚書は既に権力を独占するための手段ではありえなくなっていたのではありますが。

 父のお膳立てにも関わらず、元帝が頼ったのは別の存在でした。彼らは元帝が幼い頃から傍にあり、常に彼に従ってきた人々です。それこそ即ち、宦官です。

 宦官が重用されるようになったのは、武帝期からです。武帝は後宮で長い時間を過ごしたため、政務の報告やら取次役やら何やらで、宦官に頼ることが多くありました。

 宣帝もまた宦官を利用しました。特に、霍光の事例から、上奏を臣下が管理することで権力が握られることを防ぐため、宦官の司る中書に頼ったことから、宦官のちからは武帝紀と比べても増大していたのです。

 それは元帝になっても変わらず、特に宣帝からも重く用いられていた中書令の弘恭、中書僕射の石顕が実権を握ることになりました。前47年、弘恭が亡くなり、石顕が中書令に昇進します。それでも宦官の力は衰えを見せませんでした。


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2019年11月15日

前漢武帝後 宣帝の死 匈奴が分裂して弱体化した中、前49年に宣帝は世を去る 文武に功績を残し、中興の祖と言われる名君の1人だった

 宣帝は呼韓邪単于に金印を与えるなど歓待し、呼韓邪単于は長安に1ヶ月ほど滞在して帰国しました。

 郅支単于もまた漢に使者を送りましたが、その扱いは呼韓邪単于よりも低いものでした。漢が呼韓邪単于に肩入れしていると知った郅支単于は攻撃されることを恐れ、烏孫と接近を図ります。

 しかし、このような状況で郅支単于と結ぶのは火中の栗を拾うようなものですから、烏孫は郅支単于との連携を拒否しました。いえ、それどころか、郅支単于からの使者を殺し、漢にその首を送ったのです。

 郅支単于は烏孫を攻撃して破ります。こうして郅支単于は匈奴の西方を抑えるようになりました。

 西方ではこうして匈奴がやや力を取り戻しつつありましたが、まだ漢中王には脅威とは見られていませんでした。そのため、非常に温度差を感じるようなことが行われます。

 前51年、宣帝は儒者を集めて当時力を持っていた5派の異同を論じさせました。なにやらキリスト教の歴史における公会議みたいな感じですね。このような会議をやらなければならないということは、聖王においてキリスト教が力を持ったのと全くと同じように、儒教が中国で力を持つようになってきたことを示しています。

 特に、地方から中央に召されるための試験は孝廉でしたね。儒教的な倫理観が問われるのですから、地方の子弟たちは儒学を学ぶわけです。地方から儒教は力を持っていき、中央も無視できないようになっていました。

 皮肉なのは、宣帝本人は儒家を好んでいなかったことでしょう。ある時、儒者が配膳の際の肉料理の配置を古礼に則るように変えて欲しいと言われた宣帝は、「もっと昔は人々は手づかみで料理を食べていたという。それに戻せばどうか」と、復古主義に偏る儒家に嫌味を言っています。

 そのわずか2年後の前49年、宣帝が世を去ります。

 宣帝は霍光の恤民政策を引き継いで国力を高め、西域を安定させました。このことから、前漢の中興の祖と言われます。



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2019年11月14日

前漢武帝後 河西回廊の危機2 匈奴の虚閭権渠単于が没し、内紛の末に呼韓邪単于が漢に投降して重用される

 当面の対応を終えると、趙充国は金城において屯田を開始し、守備兵自身に食料を生産させることで支配を固めようと図ります。その実施により、羌族は漢に屈しました。金城には護羌校尉が置かれ、羌族を監督することになりました。前60年には亀茲に西域都護府が設置され、初代の都護は車師国を降伏させた鄭吉が任じられました。

 河西回廊付近の小国が漢に確保されたことは匈奴にとってはダメージとなりました。加えて、内紛がその弱体化に拍車をかけることになります。

 前60年に虚閭権渠単于が没すると、その後継者を巡って5人の単于が乱立します。虚閭権渠単于の子の呼韓邪単于が一度は匈奴を把握したかのようになったのですが、左賢王で呼韓邪単于の兄が郅支(しっし)単于として立ちます。呼韓邪単于は勢力で劣るようになり、漢の支援を仰ぐことになりました。

 前53年、呼韓邪単于は息子で右賢王の銖婁渠堂(しゅるきょどう)を漢の宮廷に送りました。もちろん、これは人質としての意味を持ちます


 郅支単于にとっては、ライバルである呼韓邪単于が漢と結んだことで極めて不利な立場へと追い込まれます。そこで、郅支単于も息子の駒于利受(くうりじゅ)を漢の宮廷へ送りました。皮肉なことに、従兄弟同士で、次期単于を巡って敵対関係となった2人が外国の宮廷で席を並べる事になったのです。

 更に2年後は、呼韓邪単于自ら漢を訪れて正月の朝賀に参加しました。漢ではこれを祝い、民に爵位が与えられています。

 呼韓邪単于には列侯よりも上位の位と、臣と称しても名を言わなくて良いという特権が与えられました。

 出師の表の書き出しが「臣亮申す(臣下の亮が申し上げます)」と始まることに見られるように、皇帝に対して名乗る際には臣+名が決まりです。呼韓邪単于にはこう名乗らなくて良いという特権が与えられた、ということですね。諱の風習に見られるように、古代中国では相手の名前を呼ぶのは基本的に失礼なことで、それが許されるのは目上の者だけだったわけです。それを名を呼ばなくて良いとしたわけですから、臣下ではありながら限りなく対等に近い立場とした、という意味合いを持つものです。


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